紅葉岳山頂の大天狗の屋敷。普通一般の天狗が近づくことなどほとんどないこの場所に、もう何度も足を運んでいる。自分自身何か用があるわけではなく、妹の付き添いとしてだ。
「今日はすっげー美味い料理を食わせてくれるらしいぜ!どんなんだろうな?楽しみー!」
「あはは、よかったね」
大天狗の屋敷に行く道中、妹の霊羽は屋敷に着いてからのことに思いを馳せていた。上り坂を進む足取りも軽やかで、側から見ても浮かれているのが分かるだろう。
「鈴葉も一緒に来たらいいのに」
「私はいいよ。あんまりお腹空いてないし」
鈴葉は苦笑いして霊羽の誘いを断る。仕方ないなと霊羽は肩をすくめ、特に気に留めることなく先を歩いていく。
屋敷に着くと、使用人の天狗に連れられ、いつもの中庭に案内された。大天狗が来るまで、ここで自由にしていいことになっている。
霊羽と庭を散歩しながら、何気ない会話をして過ごす。程なくして屋敷の主、大天狗がやってきて、霊羽がそちらへ駆けていく。
「大天狗様ー!」
「よく来たな、霊羽。今日は鯛の料理だぞ」
楽しそうに話す二人を、少し離れたところから眺める鈴葉。
霊羽は大天狗に気に入られている。ただの獣天狗の子供が、こうして食事に誘われるなどあり得ないことだ。しかしそれは霊羽だけであり、鈴葉が霊羽と共にいると、冷たい視線で睨まれる。最初は鈴葉も一緒に食べに行ったり、遊んでもらったりしていたが、自分は邪魔に思われていると気づいて遠慮するようになった。
「鈴葉ー、本当にいらないのかー?」
「うん、私の分まで食べてきて」
そう言うと霊羽は大天狗と共に玄関の方へ歩いて行った。寂しげな表情で霊羽の後ろ姿を見送る。
私は姉だから我慢しなきゃ。鈴葉は心の中で何度もそう呟き、込み上げる不満と嫉妬心を押さえ込む。
「鈴葉ー」
中庭に面した部屋から呼ぶ声がする。そちらを見ると、紫の着物を着た長い黒髪の少女がいた。大天狗の娘、リンだ。リンは部屋から出てきて縁側に腰を下ろす。
「リン様……」
「おいで、お団子あるわよ」
リンは言霊でさらに並べられたみたらし団子を召喚する。隣をぽんぽん叩き、座れと促してくる。言われた通り隣に座り、差し出された団子を一つ受け取る。霊羽が大天狗と過ごしている間、いつもリンが気にかけてくれていた。
「うん、この団子美味しいわよ。あなたも食べてみなさい」
遠慮ぐせでもたもたしていたところをリンに催促され、ようやく団子に口をつける。美味しい。鈴葉にも馴染み深い、普通に屋台で売ってそうな団子だ。
リンはかなり地位の高い天狗だが、友人のように親しく話しやすい。先程まで暗い気持ちでいたが、リンと話しているうちに霊羽への嫉妬心も薄れていった。
「ごめんね、きっと、なんとかするから」
「ん?今何か言いました?」
「いいえ、気にしないで」
リンの表情に一瞬影が差したが、すぐににこりと微笑む。
「ほら、いらないなら全部もらっちゃうわよ!」
「い、いりますー!」
鈴葉にも笑顔が戻る。リンがいなければ、きっと心が壊れていただろう。偉大な存在でありつつ友人の彼女に、鈴葉は感謝と最大の信頼を抱いていた。
(幻夢界53.雪の章)
「ちょっと外に出てくる」
「はーい、いってらっしゃいませー」
「もう帰って来なくていいですからね〜」
共に飲んでいた現人神と豊穣神にそう告げ、酒鬼命は宴会部屋を出る。カラクリの昇降機で一番下の階まで降り、神の宿――神宴楼の外に出る。
神宴楼は何者かが創った特殊空間であり、宿の神宴楼と周辺数キロの空間のみの場所だ。空はずっと暗いままで夜のようで、神宴楼の明かりがこの空間での一番の光源になっている。
「ふぅ〜、一人で飲む酒も静かで良い」
酒鬼は涼しい空気で身体を冷ましながら、また大盃を傾ける。酒鬼にとって酒は水くらい必要なもので、毎日どんな時でも持ち歩いている。酔っているのが通常運転であった。
神宴楼からまっすぐ歩き、橋の上までやってくる。思った通り、見知らぬ人物らが神宴楼に向かって歩いてきた。白いローブで全身を覆い、顔もよく見えない三人の者たち。
「ここは神のみが立ち入りを許可されている場所、お前たちは何者じゃ?」
三人の前に立ちはだかり、酒鬼は問いかける。
「もちろん神だが。そこを通してもらいたいのだが」
先頭にいたローブの男がそういう。酒鬼ははぁとため息を吐き、酒を喉に流し込む。後ろの白ローブたちは酔っ払いに絡まれたと呆れている様子だ。だが酒鬼の思考ははっきりしていて、その上で三人の前から退くわけにはいかなかった。
「最近神宴楼を彷徨く神以外の不届者が多くてのぅ。どう見ても下手な変化の術を使ってるお前らじゃろう」
「……こいつを黙らせろ。俺は災淵様に連絡する」
男の後ろにいた二人が前に出てくる。各々武器を取り出し、酒鬼を挟み撃ちにしようと両側からジリジリ距離を詰めてくる。
「ふん、無駄な足掻きを……」
酒鬼はもう一度酒を飲むと、口の端から炎が溢れる。
「さっさと来い、下界の者どもよ」
挑発に乗った二人だが、あっという間に酒鬼の吐き出す豪炎に飲み込まれ、残った男はあたふたと逃げようとして尻餅をつく。
「安心しろ、殺してない。いろいろ聞きたいことがあるのでな」
「お前ら白暁?は何者じゃ?災淵ってのが首謀者か?神宴楼へ何しに来た?」
三人を拘束し、情報を聞き出そうとするがなかなか口を割らない。軽く炙ってみたが、根性だけはそれなりにあるようだ。
「御稲穂に視させるか。何を要求されるやら……」
酒鬼は狡猾な豊穣神を思い浮かべてげんなりとする。その時、異変に気づいた。三人の白ローブが何かぶつぶつと呟いているのだ。
「なんだお前たち、文句なら大きな声で――」
違う。これは何かの呪文だ。詠唱をやめさせようと炎を浴びせるが、気づくのが遅かったようだ。白ローブたちは呪文を詠唱し終え、酒鬼の炎とは違う、黒い炎に全身が包まれた。服、身体、武器などの所持品全てが燃やされ消えていく。
「証拠隠滅か……。やられたな」
灰すら残さず、文字通り跡形もなく消えた三人の侵入者。白暁という集団がいること、まだ神宴楼に蔓延っているだろうということ、災淵という幹部のような存在がいること。酒鬼にはその情報しか手に入らなかった。
「外を調べる必要もあるのぅ」
(もしも鈴葉が堕落族を憎んでいたら、の世界線)
「おいおい、これは何の真似だ?堕天霊の生まれ変わりよ」
「っ!」
地に押し倒された堕天鬼が挑発気味に鈴葉へ問いかける。
堕天霊の生まれ変わりという言葉で、鈴葉の怒りは一気に頂点まで湧き立つ。堕天鬼の首を両手で押さえつけ、体重を乗せる。
「堕天霊なんてやつのせいで、私は山から追い出されたり、危険視されて命を狙われたり、勝手に恐れられたり……。あんたたち堕落族のせいで、こっちは人生めちゃくちゃにされてるんだよ!」
鈴葉の恨み言に、堕天鬼は愉悦そうに笑う。首を絞める鈴葉の腕を掴み、爪を食い込ませて少し腕を引き剥がす。
「知るかよ。他の奴らの人生もめちゃくちゃにしてやればいいだけだろ」
「うるさい。あんたたちみたいな絶対悪、私が全員殺してやるんだから」
鈴葉は堕天鬼へさらに体重を乗せる。一瞬抵抗が弱くなった時に、右手を首から離し、堕天鬼の左胸に突き刺す。肋骨を砕き、中の動く塊を掴む。
「は、はは……その程度で、堕落族が死ぬとでも?」
堕天鬼は痛みに顔を引き攣らせながらも笑い、絞められた喉から声を絞り出す。
「私の能力は、ピンチになればなるほど強くなる能力だぜ?」
堕天鬼の鈴葉を掴む腕は力を増しており、胸に突っ込んだ手の周りの傷も回復し出している。鈴葉は不快そうに回復する傷口を見ると、掴んだ心臓を握りつぶした。それでも堕天鬼は死なず、さらに邪気を強めるばかりだ。強化された妖力で体内の血液を操り、心臓なしで存命しているのだろう。
「どうだ?他では見れない芸当だろう?」
「死に損ないめ」
「諦めろ堕天狗。堕落族側へ来い。お前となら最高の悪夢をもたらせそうなんだ。お前に私は殺せないだ、ろ……?」
堕天鬼の顔から余裕の笑みが消えた。鈴葉が堕天鬼の首に噛みつき、その肉を喰らいちぎる。潰した心臓も抜き取り、口の中へ放り込む。
「無限に再生するなら、再生する前にあんたの存在をなくしてしまえばいい」
鈴葉は舌なめずりをし、堕天鬼の両目を抉り取る。臓物を喰らい、骨も砕きながら飲み込む。
捕食されながら、堕天鬼は声の出ない口を動かした。口元は笑っていた。
『間違えなくお前は堕天霊だ。敵わないな、この化け物め』
少し鈴葉が動きを止め、直後、頭を割られて堕天鬼の意識は消えた。