朝日が昇るとともに一日が始まるように、薄暗い地下では太陽のかわりに苦痛による起床が一日の始まりであった。狭い部屋にはベッドと木の椅子とテーブルだけで窓はなく、床と壁は一面冷たいコンクリートに覆われている。扉のある一面は壁ではなく、鉄格子である。そう、ここは牢屋だ。
朝になると首につけられた枷のような装置によって、体内の妖力を限界まで吸収される。妖力の枯渇で眩暈がし、足がふらつく。他の牢獄からも苦痛の悲鳴や嗚咽が聞こえてくる。
「くそっ!なんで俺が!」
筋骨隆々の歴戦の戦士風の中年男は、怒りを吐き捨てて鉄格子にもたれかかる。男は王国騎士団に所属していた元エリートであったが、近年は辺境の警備に回され、プライドを傷つけられてイラついていた。そして三日前、記憶を弄られたせいであやふやだが、何らかの組織に捕まってこの牢屋にぶち込まれたのだ。
みじめな自分が許せない男は格子を掴んで外を睨みつける。簡単にへし折れそうな細い鉄格子だが、妖力が限界まで吸い取られた体では曲げることすらできない。男が睨む通路に、こつこつとヒールで床を踏みつける音が近づいて来る。その人物に対して、男のように反抗心が残っている牢屋から罵詈雑言が放たれる。足音はそんな囚人たちの声は聞こえないとばかりに、迷いなくこちらへ向かってくる。
男はそいつに不意打ちを食らわせてやろうとタイミングを計る。そして相手の姿――小柄な少女の手先が見えた瞬間、折から腕を出して少女の手首を掴んだ。
「おっと」
掴んだはずだったが、少女は自由なままの手を後ろに回し、揶揄うような笑顔でこちらを覗いてきた。
「まったく、こいつら全然調教できてないじゃん。ここにいる時くらい能力使わせないでよね」
何の話をしているのか分からないが、相手は男の想像していたいつもの少女ではなかった。いつもは白い髪に暗い赤色の服を着た、無表情な糸使いの少女だったが、目の前の少女は薄い水色の髪に黒と赤の服を着ている。男が掴み損ねた手の反対側に、大きな時計を持っていた。背丈格好は似ているが、初めて見る相手だ。
すると、少女の来た方向からもう一つ足音がやって来た。先程より牢屋の怒鳴り声が大きくなる。
「おーい、こいつじゃない?左遷された王国騎士」
男はその言葉を聞いて頭に血が上る。俺が左遷だと?違う、俺はエリートだ!今にでも王都に戻ってやるさ!
男が一人熱くなっているところに、もう一人の足音が到着する。その相手を見て男ははっとし、憎しみを増大させて小さな少女たちを睨む。白髪の赤い服の少女だ。自分を捕らえ、毎日脳を支配するような術を仕掛けてくる相手。
「ええ、彼です。元エリートというだけあって、精神もなかなかに図太いようですね。あなた一人で連行……は無理ですね」
「無理無理!このおじさん乱暴そうだし、あたしじゃ腕へし折られて返り討ちにされちゃうよ~」
水色の髪の少女はわざとらしく男が掴み損ねた手首を指さし、べーっと舌を出した。おちょくられている。
「では私も付き添いましょう。王国騎士さん、あなたの朝食は尋問の後です」
白髪の少女の指先から赤い糸が出現する。あれに捕まると体の制御が効かなくなる。男は抵抗しようと後ろに跳ぶが、妖力不足で足に力が入らず、無様に後ろ向きに倒れてしまった。右腕に赤い糸が巻き付く。解こうと左手を伸ばすが、すぐに意識が途絶えた。
――――――
ノジア大陸東部、北側の森林エリア。周囲に街も整備された道もなく、魔物が彷徨うくらいしか人通りのない森の奥深く。そこに小さな研究所が建っていた。建物は壁が崩れかけ、周囲は森の植物に飲み込まれかけている。
完全に廃墟となった建物。その瓦礫に腰かけている少女がいた。癖毛の薄い茶髪に、紺と朱の軍服のような格好。手に持ったアルミ缶の酒をぐびぐび飲んではその辺に投げ捨て、傍に置いていた巨大な鏡に手を突っ込んでおかわりを取り出す。
「おっはよーって、また飲んでるし。朝なんですけどー」
薄水色の髪の少女、時空渡りは呆れた様子で相棒の異界送りを見る。異界送りは新しい缶のプルタブをこしゅっと開け、中身を喉に流し込む。
「朝も夜も別に関係ないだろ。せっかく人が酔いを楽しんでるのに何さ」
「それがさー王国騎士の奴隷見つけたんだよ。命手繰りと一緒に尋問して、仲間の居場所吐いてもらったから、これから人員集めだって」
時空渡りは上機嫌に言うが、異界送りは面倒くさそうに溜息を吐いた。
「もう十分人手は足りてるだろ」
「でも、王国騎士だよ?たんまり妖力持ってるだろうし、奪えるだけ奪って損はないよ。カミ様もお喜びになるよ」
「おい、あのなぁ……」
異界送りは何か言おうとしたが、時空渡りの後ろの扉が開くのを見て口をつぐんだ。ボロ廃墟の扉から白髪の少女、命手繰りが出てきたのだ。
「時空渡りから話は聞いてますねって、あなたってやつは……」
異界送り周辺に転がる空き缶を見て、命手繰りは怒ったようにじろりと異界送りに視線を送る。異界送りはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向き、時空渡りに声をかける。
「こいつの小言を聞くのはこりごりだ。酔い覚めるくらいまで時間戻して」
「え~~~、あたしまたあの牢獄行かなきゃじゃん。めんどくさーい」
「酔い覚めたらここまで飛ばしていいから」
「チョコ奢りね」
時空渡りの能力により、時は命手繰りが扉から出てくる前まで戻る。命手繰りが扉を開けた時には、異界送りから酒は完全に抜けていて、足元の空き缶も跡形もなく消えていた。
「人攫いだろ。さっさと済まそう」
「話が早くて助かります」
鏡であらゆる場所、異世界にまでも移動することができる異界送り。時計で過去にも未来にも自由に行き来できる時空渡り。糸を繋げた相手を自在に操ることができる命手繰り。三体の操り人形と大勢の奴隷たち、そして組織のトップのカミと呼ばれる存在。
水面下で動く組織、ユニライズはノジアの秘境を拠点とし、幻夢界各地に支配の糸を張り巡らせていた。
――――――
命手繰りは空中に映し出されたディスプレイを見つめる。そこには連れてきた王国騎士のデータが書かれていた。
すでに捕らえていた男と合わせて九人の王国騎士が見つかった。全員元エリートや実績持ちの優秀な者ばかりで、特殊能力まで身につけている。
「これほどの力がある彼らを、王国がなぜ手放したのかは不明ですが、思わぬ収穫でしたね」
命手繰りは画面をスクロールしてデータを読み終えると、空中ディスプレイを消す。そして二、三メートル程離れた食卓に目をやる。九人の男女が恨めしそうにこちらを睨んでいる。首には妖力を吸い取る装置をつけられ、テーブルに置かれた食事には目もくれない彼ら。抵抗できないように妖力は奪っているが、さすが王国騎士だ。今日連れてきたメンバーは全員精神が強く、簡単には屈しないと表情が語っている。三日前に捕まえた男は今朝の拷問が堪えたのか、俯いて大人しくしている。
「さあ、こちらのことは気にせず、早く食事を済ませてください」
命手繰りは感情のこもっていない単調な口調で言う。パンにサラダ、肉、スープとバランスの良い食事が、九人それぞれに与えられている。首の装置以外の拘束はなく、いつでも自由に食事にありつける。しかし全員命手繰りの言葉には従わず、怪しむように眉をひそめたり腹立たし気に舌打ちをしている。その中の一人、少し顔に皺が入った初老の男が立ち上がる。落ち着いた動作で威厳がある。
「我々を捕らえて力を奪ったかと思いきや、食事をしろと。あなたたちの目的は一体なんだ」
「あなたは……騎士団の元副団長ですか。随分と立派な経歴ですね」
命手繰りは質問に答えず、元副団長をじろりと観察する。妖力を奪われて立っているのも苦しいはずだが顔には出さず、交渉しようと真っ直ぐに命手繰りを見つめている。
「あなたは外での活動に向きそうですね。騎士団にスパイとしてでも戻らせましょうか」
「何の話だ?スパイなど――」
「あなたたちは何も考えなくて結構。私の命令に従っていればいいのです。食事を取りなさい」
話が通じないと顔をしかめる元副団長。他の王国騎士たちが反論を言おうと口を開いたところで、命手繰りは両手十本の指から赤い糸を出現させ、元副団長の手足や胴体など、体中に糸を巻きつかせる。大人しくしていた男が赤い糸を見てびくりを肩を跳ねさせた。
糸を巻き付けられた元副団長は驚いて顔を強張らせると、ぎこちなく椅子に座り、パンを手に取ってほおばり始める。
「ふ、副団長!?」
隣にいた部下が困惑するが、元副団長も訳が分からないと目がうろたえている。どうなっているんだと騎士たちがざわつく。
「あの糸だ……」
大人しくしていた男がぼそりと言う。声は震えていて、息遣いも不規則だ。
「あの赤い糸に繋がれると、あいつの思い通りに動かされるんだ。操り人形みたいにな」
騎士たちは警戒して命手繰りを睨む。元副団長の両隣の者は糸を解こうとするが、妖力のない彼らでは命手繰りの糸を処理できない。
命手繰りは表情を一切変えず、冷たい声で全員に告げる。
「あなたたちはユニライズのメンバーとして、これから毎日働いてもらいます。その対価として、我々はあなたたちの衣食住を保障します。聞き分けのいい者(洗脳が完了した者)には休暇も与えますし、妖力もお返しします。
幻夢界を生まれ変わらせるカミの手足となれることを喜びなさい」
さらに多くの糸が命手繰りの指から出現し、残りの八人にも接続される。体の制御を乗っ取られ、全員無理矢理食事を取らされる。同時に糸から感情までも操られ、騎士たちの思考は恐怖で支配される。
騎士たちの自由を奪ったことを確認すると、命手繰りは指から糸を切り離して、解けないように騎士たちの体に糸を結ぶ。
「食べ終わったらあの子たちの支持に従ってください。抵抗すれば、食事で回復させた妖力も装置に吸い取らせますからね」
命手繰りはそう言い残すと、外に待機していた妖獣と入れ替わりに部屋から出る。妖獣は完全に洗脳が完了しており、意志も感情もない命令を聞くだけの傀儡となっていた。妖獣には無理やり対象を支配する赤い糸ではなく、対象を強化する青い糸が繋がれていた。
部屋を出た命手繰りは長い廊下を歩いていく。
一定間隔で白い照明がついた天井、ステンレス貼りの壁、硬いタイルの床。廊下と繋がっている部屋のドアは認証式の自動ドアだ。廃墟の地下とは思えないこの場所は、カミの力によって特殊空間に展開されている。廃墟に特殊空間へのゲートがあるだけで、そことは別の場所だ。
命手繰りは迷いなく廊下を進み、エスカレーターで上の階まで移動し、空中に関係者以外立ち入り禁止と文字が浮かぶ廊下の前で立ち止まる。この先は幹部しか入れない機密エリアだ。ユニライズのボス、カミと呼ばれる存在の部屋に繋がっている。赤い警告文が浮かぶ強力なエネルギーのバリアによってカミと命手繰り、異界送り、時空渡り以外の者の通行を禁じている。
命手繰りはバリアの手形マークに自分の手をかざす。 赤い警告文が青に変わり、命手繰りはバリアをすり抜けて奥へ進む。さらに廊下を進み、行き止まりの部屋の前に着く。カミの部屋だ。ロックがかかったドアの脇にあるセンサーに手をかざす。ドアが開き、暗い部屋が命手繰りを飲み込む。
部屋の中に照明はなく、かわりにモニターや機械類のボタンの発光が光源となっている。暗闇の中、命手繰りは慣れた足取りで、モニターを眺めるカミの元までやって来た。
「報告に参りました」
三メートル程の身長の人物が振り返る。黒いローブに身を包み、頭へと伸びるやけに長い黒い首。その顔は穴の開いていない白い仮面に覆われ、頭には後方に伸びる二本のツノ。肩の上と下には、胴体と繋がっていない黒い腕が四本浮遊している。人型と似た姿をしたそれこそが、幻夢界を我が物にしようと企む者、ユニライズのカミであった。
「ノジアの王国兵士九名を確保しました。どれも身体能力が高く、精鋭として使えそうです。一週間程で洗脳完了するでしょう」
命手繰りの報告に、カミはそうかと頷く。
ユニライズの人員は、すでにかなりの数が集まっていた。手下が多いに越したことはないが、カミを喜ばせるにはパンチの足りない情報だった。
「例の対策はどうなっている」
カミがそう問う。前方にいるのに、部屋中から声がするように聞こえる。
「堕天狗、ですか?あの二人に任せているので詳細は不明ですが、なかなか苦戦しているようです」
命手繰りは二人――異界送りと時空渡りを思い浮かべる。命手繰りと同じ、カミによって造られた操り人形だが、どうも相性が悪い。特に異界送りとは顔を合わせるたびに皮肉を言い合うような仲だ。
カミが考えるように唸る声で、命手繰りは思考をやめてカミに意識を向ける。そしてカミの発した言葉に、滅多に感情を出さない命手繰りの目が少し見開く。
「私が、ですか?……ええ。……はい、承知しました」
カミからとある命令を下された命手繰りは、一礼すると暗い部屋を後にする。廊下の白い照明の明かりを帽子のつばで遮る。どうしようかと思考を巡らせながら来た道を戻り、自身の作業場にしている一室に向かう。
制御室とプレートに書かれた扉のロックを開け、命手繰りは中へ入る。室内には誰もおらず、監視カメラの映像が映るモニターや、ユニライズメンバーへ自動で指示を出す通信機の静かなファンの音が鳴っていた。
命手繰りはパソコンの置かれたデスクに座り、慣れた手つきでデータファイルを開いていく。データは空中に映し出され、デスク上部は写真や文章の画面でいっぱいになった。
その中の写真の一つを命手繰りは睨みつける。青い着物を着た獣天狗が映っている。
「堕天狗……」
憎々しげに呟く。ユニライズの敵でありながら、目的のためにどうしても生かさなければならない存在。
命手繰りは異界送りと時空渡りに呼び出しの連絡を送り、二人が来るまでの間、堕天狗周辺の情報が並べられたデータを頭に叩き込んだ。
――――――
堕落族殲滅組織ユニライズ。とあるカミによって創られた組織で、その存在は公には知られていない。幻夢界を脅かす存在の堕落族を排除し、それにより多くの信仰――四柱を上回る信仰を得たカミが新たなる幻夢界を生み出すことを目的としている組織だ。
幻夢界は不完全な世界である。四柱の管理不足によるエネルギーの過不足、世界のバグ的存在の降魔と毒ガス地帯、人間界依存の分離世界という立ち位置。
カミは幻夢界を完璧な世界にするために、堕落族と同時に創造神四柱も滅ぼそうとしている。カミには創造の力があった。四柱には劣るが、土地も命も生み出すことができる。
かつてはカミ自身が島を作り、生み出した生命たちの小さな楽園を見守っていた。その時間は平和であったが、カミの築き上げた楽園は創造神の気まぐれによって、命も島も海の藻屑となってしまった。悲しみに打ちひしがれたカミは創造神を恨み、自身が真の創造神になり、完璧で平和な幻夢界を創る決意をした。
カミは残った力を限界まで使って二体の操り人形を生成した。あらゆる空間を行き来する異界送りと、時間を自由に行き来する時空渡りだ。
相手に話しかけるか否か、道を右に行くか左に行くかなど、行動一つで未来は分岐する。カミは最善の未来を進むため、異界送りと時空渡りの能力でいくつもの並行世界の行方を調べた。カミの行動や操り人形たちへの指示で世界の動きは大きく変わるが、どうしても変えられない未来があった。
幻夢界の崩壊。
七百年後の確定事項だった。エスシ地方の守護神ネルが滅び、バランスが崩れた幻夢界によって四柱も衰退する。そこに堕落族と降魔が跋扈し、幻夢界は終わりへ向かうというものだ。あらゆる手を尽くしたが原因のネルを保護することも不可能で、現時点でカミが四柱に成り代わる力も足りていない。
そこでカミは堕落族を滅ぼして世界の崩壊を遅らせ、その間に信仰を集めて幻夢界を創り直すという計画を立てた。堕落族に対抗するのにも力が必要だ。カミにはあらゆる世界から力を集め、何度も繰り返す手段がある。その効率を上げるため、三体目の操り人形の命手繰りが創られた。
ユニライズという組織を作り、命手繰りの操る駒に力を集めさせる。駒を使いながら並行世界で堕落族を倒す実験をし、カミは堕落族を無力化する技術の創造に成功した。例外的存在を除いて。
紅河鈴葉という獣天狗の存在がカミの計画を狂わせた。最強の堕落族、堕天霊(だてんりょう)の生まれ変わりである彼女が死ぬ世界では、必ず幻夢界が崩壊を向かえるのだ。堕落族を滅ぼそうが、弱った四柱を助けようが、紅河鈴葉がいなければ絶対に幻夢界は滅びる。いくつもの並行世界を渡り歩いて分かったことだった。
紅河鈴葉を生かそうともしたが、まるで世界に拒絶されているかのように紅河鈴葉は死に追いやられてしまう。彼女が生き延び、幻夢界が存続する未来には、未だに辿り着けないでいた。
――――――
「呼んだ?」
命手繰りのデスク横の空間に鏡が現れ、中から面倒くさそうな顔の異界送りがにゅっと出てきた。鏡の向こうのどこかに時空渡りもいるようだ。命手繰りは椅子から立ち上がり、異界送りに向き直った。
「カミ様からの命令です。私を並行世界に連れて行きなさい」
命手繰りの要求に、異界送りは少しぽかんとする。言葉の意味を理解すると、はぁ?と口を歪めて不快感を示してきた。
「お前何言ってんの?」
「連れて行けと言っています」
「それは分かってるっての!お前は裏方担当だろうが!どうして連れて行かなきゃいけないんだよ」
異界送りは鏡から身を乗り出し、噛みつかんばかりの勢いで文句を言う。
二人は顔を合わすたびに言い争いになるくらい相性が悪い。面倒くさいなと命手繰りは一瞬目を閉じ、説得のために思考を切り替える。
「随分と並行世界の選別に苦戦しているようじゃないですか。なぜ紅河鈴葉が死ぬのか、幻夢界はなぜ滅びの運命を振り払えないのか。私の視点でも見てこいとの命令です」
「何度も繰り返してるボクらでも見つけられないのに、知識だけのお前に何ができるってんだ。だいだい、向こうのお前はどうするんだよ」
向こうの――並行世界にいる命手繰りのことだ。どの世界線にも四柱や堕落族、紅河鈴葉がいるように、カミや命手繰りも並行世界には別個体が存在している。例外的に異界送りと時空渡りのみ、どの世界線にも時間軸にも、一人しか存在しないという特殊な存在だった。つまり命手繰りが並行世界に行けば、一時的にだがその世界には命手繰りが二人存在することになる。
「慣れていないからこそ見つけれられる見落としもあるかもしれません。私にはあなたたちが持っていない知識もありますし。向こうの存在のことも問題ありません。こちらを預かっています」
命手繰りはUSBを取り出す。
「向こうのカミ様にこれを渡せば、こちらのカミ様の意図は伝わります」
「ぐっ……じゃあ、死んだらどうする?ボクは時空渡りに時止めで危険を回避できるけど、そっちの面倒まで見るのは勘弁だぞ。瞬間移動もできないお前じゃ足手まといだ」
異界送りは余程命手繰りを連れて行きたくないようで、重箱の隅をつつくように言い訳を探している。
「私が死んだら、そちらの都合で戻していただいて構いません。私へのサポートは最低限で結構です」
「あっそ。その自信がどこまで続くか見物だな」
「自信ではなく、ただ命令に従うまでです。あなたもずべこべ言わずに従いなさい」
「こいつマジうるせぇ……」
拳を握りしめて怒りを抑える異界送り。このままではいつも通り言い争いになると、命手繰りは強引に話を進める。
「一番可能性の高い世界線、紅河鈴葉が生き残りそうなところをお願いします」
「ったく。時期は?」
「崩壊前ならいつでも。おまかせします」
異界送りは溜息を吐いて鏡のサイズを大きくする。鏡は身長より大きくなり、中にいる異界送りの足元まで見えるようになった。異界送りの後ろから時空渡りもこちらを覗き、やっほーと手を振っている。
命手繰りは世界を繋ぐゲートとなっている鏡の中に入った。水中に入ったように視界が歪んだ後、青々とした森が瞳に映り込む。じっとりした暑さ、夏手前の季節だろう。
「ここは?」
「並行世界G-S1-1019。紅河鈴葉が聖都にて自害する世界線。時間は紅河鈴葉が堕天鬼と接触して数日といったところ。今いる場所はノーブルパレス近くの遺跡森」
その後も異界送りの世界の説明が続く。大まかな紅河鈴葉の行動の流れを聞き、周辺人物の情報も詰め込む。
「ここの紅河鈴葉は前世、堕天霊の魂に抗えずに自害を選ぶ。堕天鬼と接触後、堕落族が動き始めるはずだ。この辺りから未来を変える要素が大きくなっていくと思う」
「なるほど、理解しました」
「で、どうするつもりなのさ?」
異界送りがじろりとした視線を向けてくる。
「とりあえず、この辺りで手足になる者を捕らえてきます。そちらはまずカミ様にUSBを届けてください。その後は好きなように行動してくれて構いません。私への様子見は十五分毎くらいでいいですよ」
命手繰りの返答に、二人は顔を見合わせる。
「本当に十五分でいいの?何回死んでも知らないよ?」
時空渡りが煽るように言うが、命手繰りは首を縦に振る。
「私はあなたたちと違って、時間を巻き戻せばやり直しのきく存在です。死んでいたら手の空いた時に蘇らせて助言をいただければ十分です」
「何考えてるのかさっぱりだね~。まあ、気づいたら生き返らせてあげるよ。じゃ、頑張ってね~」
時空渡りはそう言うと、異界送りと共に鏡の中に入ってどこかへ消えて行った。鏡も消え、遺跡森には命手繰り一人となる。
命手繰りは近くに生えた木にもたれ、とある通信を待つ。命手繰りが並行世界に向かった目的の八割がこの通信を成功させることだった。五分もしないうちに、命手繰りの頭の中に信号が送られて来た。この世界のカミからだ。
『向こうの命手繰りか?』
『はい。データの方は見ていただけましたか?』
声に出さず、思考そのままをカミに伝える。多めに妖力を使用するが、カミと秘密裏に通信する手段として命手繰りに実装されている機能である。
『そちらの私は優秀なようだな。なかなか面白いものだった』
『では、ここの命手繰りのアップデートもよろしくお願いします』
その後少しの会話をした後、カミとの通信を終える。一分程度の通話であったが、命手繰りは妖力の消費でだるさを感じた。
カミとの計画。それは並行世界間での記憶の共有だ。異界送りと時空渡りはあらゆる世界線、時間軸で別個体が存在しない。Aの世界線に二人がいれば、Bの世界線には二人は存在しない。過去に戻っても、過去の二人と遭遇することはない。つまり、異界送りと時空渡りは全ての世界線、時間軸の記憶を持っている。
一方、カミと命手繰りは世界線それぞれに一人存在する。今いる並行世界に命手繰りは二人存在するし、時空渡りと共に数秒前に戻れば、数秒前の命手繰りと遭遇する。時空渡りだけで過去に戻れば、戻った分命手繰りの記憶も失われる。その世界線、時間軸での記憶しか保持できないのだ。
命手繰りの瞳には常時録画機能が備わっている。そのデータはユニライズ基地に送られ、カミに全て伝えることができる。異界送りと時空渡りには知らされていない機能だ。元の世界でカミの部屋に行った時、命手繰りにさらなるアップデートが加えられた。それが映像データを別の世界線と共有する機能だ。すでに元の世界とこの並行世界では、両世界のカミがそれぞれ相手の映像データを調べているだろう。
これらのことは異界送りと時空渡りには秘密にしなければならない。カミからの命令だ。アップデートの情報が入ったUSBを並行世界に持ってこれるのは、今回限りだ。他の並行世界への共有はできないため、一番上手く行っている世界線を訪れた。
時間を巻き戻して、最初と違う行動を取れば、巻き戻した世界線と巻き戻さなかった世界線ができる。並行世界が並行世界を生み、行動一つで世界は無数に広がる。異界送りと時空渡りが元の世界線と、この世界線で能力を使うたび、アップデート命手繰りがデータ収集する世界線は増えていくのだ。
(あなたたちを信用していないということではありませんが、私たちが持っていない情報を持っているというのは、味方ながら脅威でもあるのですよ)
時を戻した時空渡りに聞かれないよう、声に出さずそう呟いた。
「さて、そろそろ何か捕まえましょうか」
この世界に来た目的を誤魔化すために、紅河鈴葉を生かす方法を探しつつ、一つでも多くの情報をカミへ送ること。それがこれからの任務だ。命手繰りの糸で操れる雑魚妖怪を探そうと、木から背を離して周囲を探る。襲われたときに囮にする何か。魔物でも何でもいいので、生命の気配を求めて森を歩き始めた。
しかし、すぐに足を止めて思わず息をのむ。前方から強烈な妖力――禍々しく邪悪な力を感知した。到底敵う相手ではない。殺されたところで時空渡りが時を戻すのを待てばいいのだが、少しでもこの世界のデータを収集したい。
命手繰りは辺りを見回す。左手側に遺跡森の瓦礫となった建物跡がある。気配を殺してそちらへ向かい、瓦礫の影に身を潜める。命手繰りが相手に気づいたのだ、強力な相手がこちらに気づかないはずもなく、獲物を見つけたとばかりに瓦礫の方へ進路を変える。
恐怖は感じない。駒がない状態でどう抗うか、思考をフル回転させる。交渉か、騙すか、なんとか時間を稼ぐか……。
少し離れた茂みのすぐ向こうまで禍々しい気配が近づいてきた。嫌な予感がする。生物的な本能があれば恐怖で我を失ってしまうような圧倒的存在。操り人形の命手繰りにそのような本能は備わっていないが、悪い状況だということは嫌でも分かる。
ついに相手の姿が見えた。薄暗い森で不気味に光る棘のついた輪を頭上に浮かべた人物。
「堕落族……」
命手繰りと相手の視線が交わる。額に一角を持ち、長身の修道女の服を着た赤い髪の堕落族。物珍しそうに命手繰りを眺める紅い瞳、背のズタズタの翼、巨大な十字のような剣を鎖で腰ベルトに繋ぎ、地面にずるずると引きずっているのが目立つ。堕天馬と呼ばれる個体だ。
「こんにちは、お嬢さん」
堕落族がにこりと微笑む。優しさなど微塵も感じられない、貼り付けたような胡散臭い笑みだ。
「なぜこいつが地上に……」
命手繰りはぼそりと独り言を零す。この堕落族は普段は地獄にいるはず。聖都崩壊事件という幻夢界崩壊の危機に瀕するまで、地上に出てくるデータはなかった。呟きは堕天馬に聞こえていたようで、ほうと面白そうに目を細める。
「ボクのこと知ってるんだ?普段は地上にいないってことまで。物知りなんだねぇ~」
命手繰りは答えずに堕天馬を観察し続ける。殺意よりもこちらへの好奇心が上回っているのか、すぐに攻撃してくる素振りはない。
命手繰りが何も答えないでいると、堕天馬はさらに言葉を続けた。
「ふぅん。君は他の奴らとは違うんだね。みんなボクのことを見ると恐怖でおかしくなるのに、君の感情は空っぽだ。食べ応えがなさそうだなぁ」
期待外れだと首を横に振る堕天馬。操り人形の命手繰りは感情が薄く、負の感情を食する堕天馬には退屈な存在だったのだろう。
「私はただの人形ですので。あなたたちの望むものは持ってませんよ」
それではと頭を下げ、命手繰りはこの場を去ろうと堕天馬から数歩距離を取る。堕天馬は黙ったまま薄っすら笑みを浮かべ、命手繰りをじろじろ観察するのみ。引き止められないのをいいことに、命手繰りは堕天馬に背を向けてすたすたと歩き出す。視線から逃れるため、瓦礫が遮蔽物となる方向へ進む。
堕天馬から十メートルほど離れ、本当に追って来ないのかと不思議に思っていると、背後からじゃらりと鎖の音が聞こえた。
「ボクの望むもの、君は持ってるよ」
離れた場所から堕天馬が声を張って言う。直後、瓦礫が砕かれた唸りが響き、命手繰りの斜め前の地に、鎖が外された十字型の剣が突き刺さる。立ち止まる命手繰りの背後に、ゆったりとした足取りで堕天馬がやってくる。
「ボクの情報、どこで仕入れた?」
「堕落族のことなんて、少し調べれば簡単に情報が出てきますよ。有名なんですから」
「ははは、有名人か。困ったなぁ、いつから有名になってたのやら」
堕天馬の纏う空気が変わった。堕落族が発する明確な敵意に、辺りが凍ったように静かになる。堕天馬は命手繰りの左肩に手を置き、後ろから覗き込むように体を斜めに倒す。
「ボクが普段地上にいないことを知ってるのは、直接ボクを見ているやつか、堕落族しかいないんだよ。一体どこで調べられたのかなぁ」
肩の骨がみしみしと音を立てる。操り人形の命手繰りにも痛覚はある。痛みに顔を少ししかめ、にたりと笑う堕天馬の目を睨む。
「一つ提案があるのですが」
「何だい?」
二人の視線がぶつかり合ったままの会話。堕天馬の機嫌を損ねさせると終わりの賭け。命手繰りは頭をフル回転させて考えをまとめる。おそらく今まで異界送りと時空渡りが試さなかったであろう選択を、命手繰りだからできる手段で試す。
「正直に話します。私は堕落族と敵対する組織の者です。あなたたちを滅ぼす目的があります。そのために、いろいろ堕天馬さんのことも調べさせてもらったのです」
「おお、ボクらを滅ぼす?そりゃ恐ろしいね。で、どんな提案だい?情報は秘密にするから見逃してくれとか?」
堕天馬はくっくっと噴き出すのを堪えるように笑う。命手繰りは表情も声色も変えずに続ける。
「堕落族と敵対するのと同時に、四柱も邪魔に思っています」
「ほう?」
「手を組みませんか?四柱を滅ぼすために。組織と他の堕落族は関係ない、私とあなた二人だけの協力関係です」
堕天馬は少し考えるように目を細める。命手繰りは祈るわけでもなく、相手の答えに合わせての次の行動を何パターンか組み上げる。
「本当に君は面白いねぇ。人形とはいえ、生きてるくせに魂がないみたいだ」
イエスともノーとも言わず、堕天馬は肩を掴む手の力を強める。命手繰りの骨が砕ける音がする。そのまま指を肉に食い込ませ、簡単に左腕を胴体から引きちぎる。猛烈な痛みが命手繰りに襲い掛かり、傷口からどばどばと鮮血が溢れる。
「何を?」
そんな状況でも命手繰りは抑揚のない問いを投げる。痛みによって表情が少し険しくなっているが、赤と青の瞳には恐怖も絶望も映らない。
堕天馬は満足気に笑う。微笑みから声を出した笑いに、仕舞いには天を仰いで大笑いするまでに至る。命手繰りの血が滴る片腕を持ちながら高笑いするその姿は実に狂気的であった。
「君自身には感情はないが、君の目的には大きな希望が見える。何百、何千年もの執着が。
いいだろう。ボクは希望を食らうのが好きなんだ。四柱を潰すために協力してその希望がより大きくなるなら、個人的に手を貸そうじゃないか」
堕天馬は腕を差し出す。自分の腕ではなく、引きちぎった命手繰りの腕を。握手のつもりなのか、腕を返すつもりなのか判断がつかない。悪趣味な性格だなと分析するように思いながら、命手繰りは右手で自分の左手の甲を掴んだ。
――――――
「おいおい、あいつ何やってるんだよ」
異界送りが鏡の中を見つめて呆れた声を出す。鏡には堕天馬と交渉中の命手繰りの姿が映されている。
「別にいいんじゃない?このパターンは今までやったことなかったし。まずは命手繰りに全部やらせて結末を見て、その後でアタシたちも干渉しようよ」
異界送りとは対照的に、楽しそうに鏡を覗き込む時空渡り。
二人は約束通りに命手繰りの様子を見にきたのだが、堕落族と接触しているのは予想外であった。巻き戻して助けようとも思ったが、命手繰りは手を組もうなどと言い出す始末。何を考えているのかさっぱりだ。
「堕落族の狙いは幻夢界の崩壊か、紅河鈴葉を堕落族側へ引き込むことだぞ。手を組んだところで障害にしかならないじゃないか」
「まあ、いつか裏切るつもりでしょうよ。どっちも。でもどうやって聖都崩壊を乗り切るつもりだろうね。案外何も考えてなかったりして」
けらけらと笑う時空渡りを、異界送りはじろりと睨む。
異界送りにとって命手繰りは気に入らない相手だった。そいつがたった一回並行世界に踏み入っただけで、大きく運命が変わる――自分たちが途方もない回数を持ってして見つけられなかった未来への道が出現することが、内心悔しかった。
「あーーー、むかつく!絶対成果出せよな!」
これは任務、カミの意志だと自分に言い聞かせ、異界送りは頭のもやもやを吹き飛ばし、画面替わりの鏡に視線を戻した。
――――――
「全く……なぜ手を組む相手の腕をもぎ取るのですか」
「キミが信用できるか確かめるためさ。この程度で怯えたりブチギレたりするやつは信用できない。キミは合格だよ」
「信用の基準が理解できませんね」
命手繰りは愚痴りながら右手で千切られた左腕を持ち、元の位置にはめようと持っていく。傷口は骨と肉ではなく、プラスチックのような球体関節に、皮膚代わりの人工樹皮が被せられた、まさに人形という見た目に変化していた。骨を握りつぶされた時に関節も壊されたのだが、運良く落ちていた然の妖鉱石(治癒の力がある)で修復できた。
「便利な体だね〜。こんなの壊し放題じゃん」
堕天馬がまじまじと人形化した命手繰りの体を眺める。
「修理費は高くつきますよ」
「闇の妖鉱石でよければいくらでもくれてやるさ」
その後も堕天馬が物騒な妄想を語っている間に、命手繰りは元通りに取り付けた左腕の感触を確かめる。指先まで問題なく動かせることを確認すると、人形化を解いて生物のような自然な肉体へと戻る。
腕と一緒に引きちぎられた袖までは元に戻せなかったため、異界送りにこっそり合図を送って新しいものを持って来させた。堕天馬にどこから持ってきたのか突っ込まれたが、後で説明すると黙らせた。
「どこか話せる場所は……」
命手繰りがどうしようかと周りを見渡すと、堕天馬が森の奥を指差す。最初に堕天馬が来た方向だ。
「あっちに廃墟があったよ。ボロボロだけど、一応部屋と呼べる場所が残っていた」
「ではそこでいろいろ話しましょう」
堕天馬の後について廃墟へ向かう。
その道中、堕天馬は振り返ることもなく、無警戒に進んでいく。命手繰り程度の強さの相手を警戒する必要もないのだろう。互いに警戒すべきは情報だ。何をどこまで話し、相手の話をどれだけ信じるか。
命手繰りはもちろん堕天馬に全てを明かすつもりはない。都合よく相手を動かせる情報を流し、最終的には切り捨てるつもりだ。それは堕天馬も同じだろう。どちらが相手の読みを上回るかの勝負になる。
「ここだよ」
低木と瓦礫が密集した場所を超えると、堕天馬は立ち止まった。石造の砦跡のような場所だ。確かに他の建物だったものより綺麗に形を保っている。
「ここを住処にしている者はいませんか?」
「こんなボロい建物に住む変わり者はここにはいないだろうさ。みんな都に行くよ」
「遺跡森に都?聖都のことですか?」
「遺跡森?ああ、たしかにこの廃墟たち、遺跡っぽいね」
どうも話が噛み合わない。命手繰りは異界送りから聞いたこの世界の情報を思い出す。その間も堕天馬は言葉を続ける。
「命炎(めいえん)の都。あの忌々しい鳳凰が王様気取りしてる場所だよ。弱い者、居場所のない者、全てを受け入れるとか。ふんっ、笑えるよね。この命火(いのちび)の森もあいつの支配域だけど、廃墟として堕落族の爪痕はまだ残ってるみたいだね」
命手繰りはなるほどと納得する。元いた世界では、大昔に起こった鳳凰と堕落族の争いで、堕落族が勝利したときに都市が破壊された。建物の残骸だらけの森は遺跡森と呼ばれるようになった。この世界線は鳳凰が戦いに勝利し、都市が残ったままなのだろう。今いる森は戦争の前線で瓦礫が残っているようだ。気がつかなかった。
元いた世界と歴史がかなり違う。異界送りからは紅河鈴葉周りのことしか聞いていなかったが、これで幻夢界自体の違いが命手繰りの中で整理できた。ユニライズの拠点にある報告書で、似たような歴史の幻夢界を見たことがあったのだ。
「中に人がいないのならここにしましょう」
命手繰りは意識を砦跡に戻す。ツル植物や苔に浸食されかけたグレーの建物。堕天馬が崩れて入り口のようになった場所から中へ入っていく。少し距離を開けて命手繰りも続く。
中は照明などあるはずもなく、薄暗く冷たい雰囲気がする。ひび割れた壁の隙間と飾り気のない穴のような窓から、外の光を取り込んで視界が保たれている。
堕天馬は通路を進みながらいくつか部屋を覗いて歩き、扉のついた部屋を覗くと命手繰りの方を向いて手招きする。
「ここにしよう。椅子がある」
「椅子って……瓦礫じゃないですか」
部屋は天井が崩れており、床にその残骸が散らばっている。部屋唯一の家具のベッドも瓦礫に潰されており、真ん中でくの字に折れている。
堕天馬はそんなベッドの上に乗り、ちょうどいい高低を見つけて器用に座る。命手繰りは立ったままでいいと告げる。
「じゃあさっそくいろいろ聞かせてもらおうか。あ、その前に一応」
堕天馬が右手を前に伸ばし、横へスライドさせる。そこに黒い霊魂のようなものが三つ現れた。堕落族の手下の怨霊だ。頭のような箇所に、堕落族のシンボルともいえる棘のついた黒い輪が浮かんでいる。危害を加えられたわけではないが、怨霊の放つ負のエネルギーに命手繰りの体が不快感を覚えた。三体の怨霊はそれぞれ部屋の扉、窓、天井の外へふよふよと飛んで行った。見張りだろう。
これでゆっくり話せると堕天馬がこちらを向く。命手繰りは頷き、自らの正体について話し始めた。
「私は並行世界から来ました」
「いきなりぶっ飛んでるねぇ!」
茶化すように堕天馬が突っ込むが、命手繰りは表情を変えずに続ける。
「仲間に異空間と時空を行き来する能力持ちの者がいます。その力で私は並行世界の過去、ここでの現在に来ました。目的は幻夢界の未来を変えるためです」
命手繰りは一度言葉を切り、堕天馬の反応を観察する。ベッドの淵に座って足を組む堕落族は、半分呆れ顔でそれで?と促す。
「この先、およそ一年半後くらいに四柱と堕落族の大規模な争いが起きます」
これは半分嘘である。実際に起こるのは聖都崩壊事件。聖都を中心にエスシ地方のバランスが崩れる事件だ。四柱が弱り、堕落族が暴れることによって幻夢界が崩壊する。
これでは堕落族の目標が達成するため、交渉にならない。堕落族が四柱に負けるという嘘で話を通すしかない。
「堕落族は全勢力を集結させますが、四柱に敗れます。そして四柱は今以上に力をつける。
私たちは堕落族にも四柱にも力をつけられては困るので、運命を変えるためにいろいろな世界線を巡っているのです」
「ふーん」
堕天馬は考えるように腕を組む。
「君はボクと協力して、その戦いで四柱を倒すか、引き分けに持っていきたいんだね」
「ええ」
「うーん。確かに堕落族内で四柱に近々仕掛けようという計画はあるよ。でも一年半ねぇ。ちょっと急な話じゃない?何かきっかけになる事件でも起こるのかな?」
堕天馬は命手繰りの言葉を信用していない。話を聞いてボロを出させようとしている。命手繰りは予想通りだと次の手札を使う。
「きっかけとなるのは紅河鈴葉、あなたたちが言う堕天狗です」
「……?誰のことだい?」
堕天馬はきょとんと首を傾げる。嘘をついている素振りはない。どういうことだと命手繰りも眉をひそめる。
「堕天鬼から聞いていないのですか?」
「先輩?しばらく会ってないし、天狗?のことも知らないけど」
「そうでしたか」
堕落族の元トップ、堕天霊の生まれ変わりである紅河鈴葉。彼女は少し前に堕天鬼という堕落族と接触してるため、てっきり堕落族全体で堕天霊復活の話を共有されていると思っていた。
「紅河鈴葉は堕天霊の生まれ変わりです」
命手繰りは軽く説明をする。紅河鈴葉に堕天霊の記憶はないことや、堕天霊の宿敵の存在も生まれ変わって存在していることなど。
堕天馬は徐々に真剣な目つきをして、黙って話を聞いている。
「彼女は四柱の味方にも、堕落族の味方にもなりうる存在。堕天鬼含め、堕落族はかつての堕天霊を取り戻したいでしょう?一年半後に堕落族が行動するきっかけはこれが理由です」
「なるほどね……。ふーん、堕天霊様が、か。うん、じゃあ堕天霊様を目覚めさせればいいってことか」
「ダメです」
即答する命手繰りに、なぜだと堕天馬は怪訝そうな顔をする。
紅河鈴葉は聖都まで生かさないと行けない存在。堕落族側に紅河鈴葉が堕ちるのは生存には繋がるが、聖都崩壊後の堕落族に拍車をかける事態となる。幻夢界の崩壊は防げないのだ。
カミが四柱を上回り、幻夢界を手中に収める力を得るまで、聖都で堕落族を暴れさせるわけには――。
「……」
命手繰りは一瞬思考を停止させて固まる。自分の目的は何だと問う。
堕天馬から殺されないように、表面上は協力することになった。そして堕落族と手を組んだ状態での未来を検証しようとしている。検証自体は異界送りと時空渡りが今後、多くの分岐を調べてくれるだろう。であれば、自分がすべきことは――二人により多くの並行世界を巡らせ、カミに多くの情報と記憶を提供すること。
堕落族を利用した後に裏切り、紅河鈴葉を生かして聖都を乗り切るつもりだったが、紅河鈴葉が堕落族側に回った状態で、聖都崩壊を迎える未来も悪くないかもしれない。負けが確定してる世界線を二人が試すはずもない。逆に負けから始めてしまえば、二人は勝ちの世界線を見つけるために様々な手を尽くすはずだ。その分、記憶の継承をできるようになったカミは強くなる。
命手繰りのすべきことはこの世界を荒らし、大負けを作ることだ。
「失礼、訂正します。堕天霊を復活させると、紅河鈴葉は四柱から狙われることになるので危険だと考えましたが、我々が手を組んだ今なら実現できるかもしれません」
「うんうん、面白くなってきたね。まあまだ君の話を信用したわけじゃないけどさ。この後先輩、堕天鬼に紅河鈴葉のこと聞いてくるよ」
堕天馬は笑顔でベッドから跳び降りる。そして命手繰りに目線を合わせて前屈みになる。不気味な赤い瞳にまっすぐ見つめられる。
「ボクはボク個人の堕落族の力を提供しよう。必要な命があれば取ってくるし、堕落族に有利なことなら、仲間を動かすこともできるかも。もちろん、君のことも守ってあげるよ」
そして目を細めて命手繰りの頰に手を当て、包み込むように撫でる。愛おしむような手つきの裏に、逃がさないと束縛のような不快さを感じる。
「君はこの後、ボクに何をくれるんだい?」
命手繰りは相変わらず無表情のまま、堕天馬の愛撫に抵抗することなく口を開く。
「他の世界や未来の情報、戦闘面では些細なサポートしかできませんが、あなたが望むものをなるべく提供しますよ。あと、希望が欲しいと言っていましたね。いつか私の希望を打ち砕かせてあげますよ」
「ふふん、いいだろう」
堕天馬は手を離して姿勢を正す。そして部屋のドアの方を見た。
「話もまとまったところで、早速実行すべき時が来たみたいだ」
建物の廊下から戦闘音が聞こえる。石造りの壁が破壊される音。見張りの怨霊を攻撃しているのだろう。程なくして、乱暴にドアが蹴破られた。
「こんなところに堕落族が来てるなんて」
怒りを露わにした赤い翼を持つ鳳凰と、その後ろから炎のようなリボンを身につけた女性が現れた。命炎の都の鳳凰、赤翼煌希(せきよく こうき)と炎を司る四柱、西咲稀炎(にしざき きえん)だ。
煌希は黄金の剣を構えて堕天馬を睨みつける。稀炎の方は、見張りの怨霊が燃え尽きるのを確認してから部屋に入り、煌希の隣に並んだ。少し微笑んでいるようにも見えるが、何を考えているのか分からない。
堕天馬が腰のベルトの鎖から十字の剣を外し、一歩前に踏み出る。
「気性の荒い鳳凰様と炎神様だなぁ。ボクらはただここでおしゃべりしてただけなのに、そんな怖い顔しなくたっていいじゃないか」
「別世界だの、四柱を滅ぼすなんて計画を語っておいて、放っておけるわけないでしょ」
「もう話が漏れてたか」
堕天馬はどうなっているんだと命手繰りに目配せする。命手繰りはさあと首を傾げて見せる。どうやら先ほど話していた会話は、全て筒抜けのようだ。並行世界についても、四柱への企みも。
『うふふ、不思議そうな顔してるわね』
命手繰りと堕天馬の背後から、少しくぐもった笑い声がした。堕天馬は正面の二人を警戒したまま、命手繰りだけが振り向く。部屋の中にも、窓から見える外にも人や生き物の姿はない。
「この声、緑神だ」
堕天馬が呟く。緑神、幻夢界の創造神の一柱。生命や植物を操る能力を持っている。
命手繰りははっとして窓の淵を睨む。壁を伝って窓から部屋に入り込んでいるツル植物。緑神はあそこだ。命手繰りは指先から赤い糸を出現させ、それで植物のツルを刺すようにずたずたに裂く。植物は簡単にばらばらに千切れ、床に落ちる。
すると、次は床の割れ目に根を張った小さな雑草から声がする。
『そんなことしても無駄よ。私は周辺の植物を通してあなたたちを見て、話を聞いているだけですもの。ここに実体はありませんわ』
「最初から盗聴されてたんだね。気づけなかったなあ。これは一本取られたよ」
堕天馬が肩をすくめる。しかし表情は余裕そうで、情報を知られたところでどうってことないと目が笑っている。
「シャナス、このことを鋭子様と水茂様に伝えて。私と煌希でここはなんとかするわ」
「了解ですわ、稀炎様」
緑神ことシャナスは挑発するようにごきげんようと挨拶し、他の四柱へ情報を共有しに行ったのか、植物から声がすることはなくなった。
「さて、始めましょうか」
稀炎が敵意のない口調で数歩前に出る。煌希も稀炎の隣に並び、右手に持った黄金の剣に炎を纏わせる。
命手繰りはどうしようかと周囲に目を走らせる。この二人を相手に勝ち目はほぼゼロに等しい。堕天馬が味方にいるとはいえ、幻夢界最強の一人である稀炎と、不死身の鳳凰とやり合うのは厳しいだろう。話を聞かれ、こちらが完全に敵と知れた現状では交渉も上手く行くとは思えない。逃げるのが最適だろう。
異界送りを呼ぼうかとも考えたが、失敗――死ぬことが許されない異界送りを堕天馬の前に出現させるのは避けたい。協力関係を築いたとはいえ、堕落族を完全に信用できるはずもない。なるべく自分の力で乗り切ろうと、異界送りという最終手段には頼らないことにした。
「逃げましょ――」
「面白くなってきた!人形、君のサポート見せてよ!」
堕天馬はやる気満々で十字の剣を一振りし、稀炎たちに戦意を見せつける。
「正気ですか?この二人を打ち負かすなどできるはずありません」
「まあまあ、炎神は無理だとしても、鳳凰なら深手を負わせられるよ。あいつには堕天霊様に逆らったっていう恨みもあるし、ちょっと痛い目みてもらおうじゃないか」
命手繰りが何を言っても、スイッチの入った堕天馬に届きそうにない。命手繰りはどうなっても知らないぞとため息をつき、十本の指から青い糸を出現させ、堕天馬の腕や足に巻き付ける。青糸は堕天馬の身体能力や妖力を強化する。
「おお、これが」
糸に繋がれ、命手繰りに動かされる操り人形のようになった堕天馬。手を握ったり開いたりして増強した力を実感している。
「この糸、君から分断しても効果あるの?」
「ええ」
「じゃあ外して。君は逃げるといいよ」
「大丈夫なのですか?相手へ軽い妨害くらいなら手伝えますが」
「いいよいいよ。君のこと巻き込みそうだし」
命手繰りは糸が解けないように調節し、指先の糸を切断する。化け物三人が戦うのだ。堕天馬の言う通り、命手繰りがいても邪魔になるだけだろう。
「ではお言葉に甘えて。またどこかで会いましょう」
命手繰りは敵の方を向いたまま後ろに下がり、窓から逃げようと石造りの壁に手をつく。もちろん敵が簡単に見逃してくれるはずもない。
「煌希、堕天馬の狙いはあなたよ。こいつは私が足止めするから、あの人形を捕らえて都に連れて行って」
「っ!?でもっ、……分かったわ」
煌希は悔しそうに堕天馬を睨みつけたが、最適な役割分担に納得して視線を命手繰りへ向ける。逃がすものかと大きな赤い翼を広げて身をかがめる。
「早く行け!」
堕天馬がそう言い、自身の周りにいくつもの黒いクナイを展開し、煌希に向けて発射する。堕天馬の妨害を、さらに稀炎の炎が妨害する。創造神が扱う炎は意志を持った龍のように身をくねらせ、堕天馬の攻撃を焼き尽くして飲み込む。
その隙に命手繰りは窓から外へ脱出し、森の中を駆ける。同時に煌希も翼を羽ばたかせ、命手繰りの後を追って窓の方へ飛ぶ。
堕天馬が煌希を止めようと、剣を振りかざして煌希の方へ跳ぶ。そこでまたしても稀炎からの妨害。腕の形をした炎が堕天馬の四肢を掴み、剣が煌希に届く前に堕天馬の動きを封じる。
「チッ。人形!こいつらを連れて行け!」
堕天馬の怒鳴る声に命手繰りは後ろをちらりと見る。すでに窓から出た煌希が、命手繰りの走る速度よりも速く飛んできている。その煌希の後ろに、堕天馬の手下の怨霊が十体、命手繰りの味方として追ってきている。
「助かりますよ」
このままではすぐ煌希に追いつかれてしまう。命手繰りはくるりと振り返り、怨霊に向かって青い糸を伸ばす。怨霊たちは煌希を追い越し、飛びつくように糸に突っ込み、強化の恩恵を受け取る。そして命手繰りを囲うように配置につく。
命手繰りから五メートル程離れた場所に煌希が降り立つ。
「観念しなさい。大人しく捕まって反逆なんてやめた方が身のためよ」
「あなたこそ部外者でしょう。これは我々と堕落族と四柱の争いです。手を引いてください」
「幻夢界を滅ぼそうとしてるあんたたちを放っておけるわけないでしょ」
互いに言葉を交わらせるのは無駄だと察し、戦闘態勢を取る。命手繰りは糸越しに怨霊に指示を伝え、煌希は炎の剣と、周囲に炎の弾をいくつか出現させる。
睨み合いの末、先に動いたのは命手繰りだった。怨霊の半分を煌希に向かわせる。そして命手繰り自身は足に力を込め、思いきり後ろへ跳び、そのまま背を向けて逃げ出した。
「逃すかっ!」
命手繰りを追おうとした煌希だが、五体の怨霊が行手を阻む。堕落族ほどの力は持たないが、生気を奪い、破滅をもたらす瘴気を纏うそれを前に、煌希は足を止める。
怨霊には命手繰りの指から切り離された青い糸が巻き付いている。砦跡で見張りをしていたものよりも強化された状態である。瘴気に触れないように剣と炎の弾で行手を妨害する怨霊を牽制していると、命手繰りを追う速度は落ちていく。
煌希のスピードが落ちたのを見て、命手繰りはさらに三体の怨霊に指示を出す。三体は後ろではなく前方に飛んでいく。
命手繰りが向かっている方角は北、虹の森方面だ。遺跡森――命火の森辺境よりも人目が多く、逃走には適していない。それでも煌希のテリトリーの森から抜ける事を優先したい。それに――。
「見つけましたか」
怨霊から糸越しに合図があった。五百メートル程先に、命手繰りが探し求めていたものがあるようだ。
命手繰りは一度立ち止まって後ろを振り返る。飛んで追いかけてきていた煌希は、遮蔽物の多い森で怨霊からちょっかいを受け、徒歩に切り替わっていた。五十メートル程離れたところで剣を振るい、時々回避行動も挟みながら命手繰りの方へ駆けてくる。
命手繰りは乱れた息をほんの少しだけ整え、目的地へ走る。妖力も体力も低い命手繰りは、砦跡からの逃走でかなり疲弊していた。体温が上がって汗ばみ、走る速度も少しずつ落ちていく。
「鬱陶しいわね!」
煌希のイライラが頂点に達する。怨霊を振り払うように全身に炎を纏い、近づけば焼き尽くすとばかりに炎を撒き散らす。そのまま疲れ知らずの速度で走り出し、さらに命手繰りにも炎の弾を発射する。
命手繰りが護衛用に残していた二体の怨霊が背後の目となり、命手繰りに避ける方向を伝える。ジグザグに動いて追撃をかわすが、余計な動きでより体力を奪われていく。
偵察に出した怨霊に帰還の指示を出す。そして一瞬後ろに体を捻り、煌希の周りの怨霊に新しく青い糸を接続する。煌希の妨害をするように指示していたが、命手繰りへの攻撃を妨害するように命令を上書きする。五体の怨霊は命手繰りの後ろまで飛んできて、闇の弾で炎弾を迎撃していく。
「そんな疲れ切った状態でどこまで逃げられるかしら」
周囲の邪魔者がいなくなったことで、煌希は全力で走れるようになっていた。纏った炎で怨霊の流れ弾を防ぎ、ぐんぐんと命手繰りに迫る。
「くっ、体力化け物め」
命手繰りは舌打ちをし、時間稼ぎにと木々に赤い糸を絡め張り巡らし、煌希の行手を阻む。
蜘蛛の巣のように木から木へ延びた糸は、触れると相手の力を奪う。炎で簡単に焼かれてしまうが、煌希の集中力を削ぐことはできた。命手繰りへの追撃が減り、煌希への闇の弾が勢いを増す。
「無駄な抵抗をっ!」
煌希は空高く飛び、上空から命手繰りに迫る。そして急降下し、命手繰りを追い越して進路を断つように立ち塞がる。
「もう逃がさないわよ」
煌希は大量の炎弾を、命手繰りを囲うように出現させる。命手繰りは足を止め、膝に手をついて息を整える。十体全ての怨霊には、いつでも炎弾を迎撃できるように警戒させている。
「ええ、もう逃げることはできなさそうですね」
「なら降伏しなさい。従えば身の安全は保証するわ」
「ふん。四柱の犬に寝返るくらいなら燃え尽きる方を選びますよ」
命手繰りは煌希を睨み、戦闘態勢になる。
「へとへとのくせに」
「体力はなくとも、糸は代償なしに操れますので」
そう言うと命手繰りは怨霊の青糸を両手から切り離し、十本の指から最大限に妖力を込めた赤い糸を煌希の方へ発射する。同時に全方位から炎弾が襲いくる。
怨霊が身を挺しながらも命手繰りを守るが、命手繰りの右目と右ふくらはぎ、左の脇腹に炎弾が直撃する。それでも命手繰りは揺らがず、前方へ糸を手繰る。
赤い糸は煌希を通りすぎ、そのまま真っ直ぐ直進した。予想外の動きに煌希は少し遅れて振り返る。そしてしまったと歯を食いしばる。
煌希の後方、そこには命手繰りが探していた獲物がいた。二人の妖獣の少女。立ち話をしていたところ、騒がしいこちらの様子をおそるおそる観察していた二人は、飛んできた糸にギョッとする。五本ずつ赤い糸に絡みつかれ、命手繰りの妖力に負けて自我を乗っ取られていく。
「ようやく駒が手に入りました」
命手繰りは妖力の消費と煌希からのダメージで地に膝をつく。顔面の痛みを抑えるため、損傷部分を人形態へ変化させる。
苦しげに表情を歪めながらも、強い敵意を向けて言葉を放つ。
「さて。弱き者を救う鳳凰よ。彼女たちの命が惜しければ立ち去ってください。これ以上私を襲えば、彼女たちには自害してもらいます。関係のない命を奪いたくないでしょう?」
「卑怯よ!正々堂々戦いなさい!」
命手繰りの言葉に、煌希は噛み付かんばかりの勢いで怒鳴る。
「これが私の戦闘スタイルです。正々堂々戦ってあなたに敵うはずがありませんので」
命手繰りは全く悪びれる様子もなく、冷徹に言い放つ。赤と青の左目は冷たく、妖獣たちへの慈悲は微塵もない。十体の怨霊と、その反対方向から二体の妖獣が煌希に迫る。
「くっ、こんなの……」
煌希が焦ったそうに呟く。仲間思いという弱点を完全に利用された。
「早く失せてください」
「……」
悔しそうに拳を握りしめて命手繰りを睨む煌希。どうにかして救えないか考えているようだ。
「これは脅しではありませんよ」
命手繰りは駒の一つに命令を下す。妖獣一人が鋭い爪で自らの喉を突き刺す。何度も自傷を繰り返し、大量の血飛沫を散らす。煌希が一瞬で青ざめる。
「やめて!わかった、見逃すから!あの子たちを解放して!」
「いいでしょう。解放するのはそいつだけです」
命手繰りは瀕死の妖獣を解放する。煌希がそちらへ駆けていき、妖獣を抱き止めて手当てし始める。
命手繰りはもう一体の妖獣を呼び寄せ、それを盾にこの場を離れる。煌希は心配そうに囮の妖獣を見たが、追ってはこなかった。
怪我した脇腹と右足を人形態に変える。痛覚が消え、歩く速度が安定する。損傷しているが、関節と軸が無事であるため問題ない。
一番の痛手は右目だった。目の周りが大きく抉れ、傷口が焼けた状態になっている。眼球が破壊されており、完全に機能しなくなっている。部品ごと取り替えなければ回復しないだろう。
「致命傷ではありませんし、堕天馬との合流を優先しましょうか。で、私はどこへ向かえば?」
命手繰りは連れている怨霊に話しかける。もちろんだが返事は帰ってこない。
現在は虹の森と命火の森の境にいる。命手繰りは糸越しに怨霊に案内しろと命じる。怨霊たちは一瞬止まって、顔を見合わせるような動きをした。そして東の方にふよふよと飛んでいく。どうなることやらと命手繰りは肩をすくめ、道中駒を捕まえながら怨霊について行った。
――――――
手足を炎で拘束された堕天馬は、手下の怨霊が煌希の邪魔をしているのを後目に確認し、安心したようにほっと表情を緩めた。
「随分と余裕そうね」
堕天馬を拘束している炎神、稀炎が少し不満気な表情で言う。手足を焼かれながらも、全く苦痛の表情を見せずに堕天馬は笑う。
「まあね。仲間の無事が何より。仲間思いなあんたたちなら理解できるだろう?」
さらに不快そうに稀炎は顔をこわばらせ、炎の火力を上げる。
堕天馬は煽るように熱い熱いと言い放ち、体を霧状に変化させて炎を逃れる。役割を失った炎の隣で堕天馬は実体化し、すでに治りかけている手足を見せびらかすようにして立つ。
「今のボクだと、炎神相手にどこまで戦えるんだろう。人形の青い糸もあるし、一回殺すくらいまで持っていけたら満足なんだけど、できるかな」
堕天馬は楽しそうにそう言いながら、再び周りにクナイを出現させる。
無数に展開された黒いクナイは、触れたものの妖力を奪い、朽ちさせ、虚無へ還元する堕落族の力を宿している。稀炎はそれに動じず、冷たい視線で堕天馬を見るのみだった。
「堕落族相手に手加減するつもりはない。四柱を倒すなんて計画がどれほど無謀なものか、その身に刻んであげましょう」
友好的と知られている炎神だが、今の稀炎の声は冷徹で、視線で相手を殺すほどのオーラを纏っている。
それでも攻撃の素振りを見えないことに、堕天馬は少し違和感を覚える。先手を打とうと展開したクナイに意識を向けた時、ふと体温の上昇を感じた。
「こいつっ!」
咄嗟に体を霧状にし、稀炎の術から逃れる。炎神と呼ばれる稀炎だが、ただの炎の神ではない。彼女は炎や大地、温度など様々なものを操り生み出す力がある。堕天馬の体温をいじり、血液を蒸発させることも容易いのだ。
「肉体を消したって無意味よ」
霧状の堕天馬の周りの温度が急上昇し始める。漂う妖力ごと燃やし尽くされそうな熱。堕天馬は霧状の体を手のひらサイズの空間に集め、周りに妖力のシールドを張る。熱から逃れられたが、シールドの維持で妖力がごりごりと削られていく。
早く反撃に出なければと堕天馬は周囲を確認する。先ほどのクナイは霧化した時に消滅させてしまった。十字の剣だけが床に突き立てられている。他は部屋の瓦礫と壊れたベッドと扉。
堕天馬は自らの力を分け与え、五体の怨霊を発生させる。そして十字の剣まで飛んで実体化し、剣を掴むとそれを振り回して周囲の瓦礫を粉砕した。壁も天井も破壊し、土埃で二人の視界が遮られる。
視界が奪われようと、稀炎の場所は気配で察知できる。稀炎も同じであろうが、周囲には堕天馬と同じ力を宿した怨霊が五体動き回っており、堕天馬本体の居場所を紛らわせている。
熱と埃で息苦しい中、堕天馬は怨霊たちに襲撃の動きを命じ、剣で稀炎を引き裂こうと急接近する。近づくほど熱さは増し、布に覆われていない肌が焼かれるように痛む。
「無駄な小細工を」
稀炎の姿が見えると同時に、呆れた声が発せられる。
首を分断する直前だった刃は業火に包まれ、それ以上前に動かなくなる。少し遅れて怨霊たちが稀炎に襲いかかるが、一瞬で炎に包まれて焼き消されてしまった。
「このままあなたも焼き尽くされなさいな」
稀炎がにこりと笑うと、十字の剣を受け止めている炎が柄の方へと範囲を広げていく。
「そんな炎、消滅させてしまえばいい」
「消滅の力以上の炎で飲み込むまでよ」
堕天馬の剣から瘴気が溢れる。堕落族の闇の力が炎を消し去るが、稀炎も攻撃の手を緩めない。消滅の力が間に合わない量の炎を発生させ、堕天馬の腕を灼熱が包み込む。腕に巻かれていた青い糸も燃やされてしまった。
再び霧化して逃れようとした堕天馬だが、同じ手を二度もくらう炎神ではなかった。堕天馬よりも早く動いて拳を固めると、ぎょっとした相手の鳩尾に右アッパーを捩じ込んだ。
「ぐっ、うああああああ!!!!!」
一発クリティカルにくらってしまい、思わず息が詰まる堕天馬。追撃に備えようと手足に力を入れた直後、体内から焼かれるような痛みに絶叫した。熱い。体内が破壊されるような強烈な苦痛に、堕天馬は後ろによろめいて地に手をつく。
「はぁ、はぁ……。さっすが四柱、幻夢界最強の神……」
堕天馬は苦痛で汗をだらだら流しながらも、歪んだ笑みで稀炎を睨む。
「ねえ。あなたはなぜそこまでしてあの人形の見方をしているの?並行世界やら未来やら、疑わしい内容に縋るほど堕落族は危機に陥ってるわけ?」
「はあ?そんなわけないだろう。むしろ勢力を増してる方さ」
堕天馬の答えに稀炎は理解できないと首を振る。
痛みが引いてきた堕天馬は、まだ肩で息をしながらも先ほどよりしっかりした声で言葉を続ける。
「あの人形が言っていることが本当でも嘘でも、ボクはどうでもいいんだよ。堕天霊様が復活してもしなくても、ボクらは幻夢界を破壊し、お前ら四柱を殺すだけ。
人形に協力してあげてるのは、あの子の負け様が見たいからだよ。あんなに大きな希望、並行世界まで背負った希望を持った子が絶望に打ちのめされた時、どんな味がするか想像するだけで堪らないだろ?聖都崩壊とやらが待ち遠しい――」
饒舌に語り始めた堕天馬だが、言葉の途中でまたしても苦痛の唸りをあげる。額のツノがめり込むのも気に留めずに地面に身を丸め、稀炎を警戒する余裕もない。
「貴様っ、ぼ、ボクに、何をした!?」
「あら、希望を欲しがってるみたいだから、私の加護をあげたのだけれど。気に入らなかったかしら?」
稀炎はアッパーの仕草をし、憐れみの笑みを浮かべる。
精神の加護。対象の精神力を強固にし、メンタルを安定させるもの。プラス思考により妖力の上昇も見込める聖なる力。
神聖な光の力で、堕天馬の堕落族の体は拒絶反応を起こし、体内から稀炎の炎に焼かれていた。堕天馬が希望を抱き、食らうたびにそれは発動する。
「よくも……。こんな不味い希望食えるかよ……。ははっ、こりゃこてんぱんにやられたな」
堕天馬はよろよろと上体を起こす。
「さあ、そのボロボロの姿を人形に見せに行ってあげなさい。あ、そうそう、これも伝えて」
稀炎は一度言葉を切ると、少し声のトーンを落として脅すように言った。
「並行世界に干渉できるのを自分達だけと思わないことねって」
「見逃してくれるなんて、ヤサシイ神様だなぁ。分かったよ、伝えたらこの呪い解けよな」
「嫌よ」
「くたばれクソ神」
堕天馬は剣を鎖でベルトに繋ぐと、中指を立てて稀炎を睨んでそう吐き捨てる。そして体を霧状にしてその場から姿を消した。