異端の鬼(後編)

 それからは人目を避けて桜蘭と過ごし、互いに家族へはそれっぽい情報を伝え続けた。共に桜を見て、雨の中傘を差して歩き、水場で暑さをしのぎ、夜に虫の声を聞き、赤くなる葉を眺め、熟れた果実を齧り、雪の上に足跡をつけた。毎日ではないが、都合の合う時は桜蘭と過ごし、一年が経った。
 もちろん小姫の里での扱いが良くなったわけではない。相変わらず差別は続き、酷な労働を押し付けられ、暴力も振るわれた。それでも桜蘭と過ごす日を楽しみにし、我慢を続けられた。辛さしかなかった毎日に少しの幸福が足されるだけで、小姫の心境は大きく変わっていた。
 桜蘭と出会って一年が過ぎた春、鬼の里から離れた虹の森で、二人は大きな桜の木の下に腰かける。
「去年は探り探りだったから遠出まではできなかったけど、やっと小姫をここに連れて来れたよ。良い場所でしょ?」
 心地よい風に髪をなびかせ、桜蘭は頭上の桜を眺める。桃色の宝珠がついた杖、『桜花千詠』を太陽に翳すと、透けて桜模様が浮かび上がる。小姫もうんと返事し、青空を彩る花を見上げる。今日は虹の森の代名詞の虹もかかっており、カラフルな景色だった。
「そういえば、もうすぐ御三家の方針発表があるでしょ」
 方針発表。年に一度、櫛田、華月、菊花が里の運営において、何に力を入れるのかを発表するものだ。妖鉱石や資材の分配、指示する派閥に属する恩恵、里全体の決め事など、いわゆる政治的なアピールの場だ。里の鬼がどの家の派閥に属するか、御三家にとっても住人にとっても重要な行事である。弱肉強食の櫛田家、外交に力を入れている華月家、保守的な菊花家。鬼の性質上、櫛田家に賛同する者が多く、一番勢力が強い派閥になっている。
「小姫と出会う前から、小鬼の地位向上とか差別をなくせるように、個人的に華月内で動いてたんだけど、今回はちょっと進展あったんだ!」
「へぇ、やったじゃん」
「小姫とはいえ、さすがに詳しくは教えられないんだけど、ちょっとだけ私の意見も方針に取り入れてもらえたんだよね。きっと小姫にも良いようになるはずだよ!」
 嬉しそうな桜蘭を見て、小姫は改めて感心する。まっすぐでまぶしい。桜蘭なら長い時間をかけてでも、鬼の里を良い方向へ導いてくれそうだ。
 その後は日常的な会話をしながら、穏やかな時間を過ごした。
「おやおやおや、たまに姿が見えなくなると思ったら密会とはな」
 日常を脅かす声。小姫も桜蘭も驚いて声の主の方を見る。筋骨隆々の櫛田派閥の大鬼、小姫に度々暴力をふるっている男だ。
「随分仲良さそうだなぁ、異端児」
「あら、櫛田のところの方ですか?この子にちょっと話し相手になってもらおうと思って。別に櫛田のことを探ったりなんてしてませんのでご安心を」
 桜蘭が立ち上がり、威与にも見せた悪女設定のセリフを述べる。しかし男にはもう親しいのがバレているようで、バカにしたような笑いで桜蘭を睨む。
「華月の嬢ちゃん、そいつはやめといた方がいいですよ。あんたにも穢れがうつってしまいますから。そのゴミは俺が綺麗にしときますから今日はおかえりくださいな」
 男は拳をバキバキ鳴らして小姫に向かってずしずしと歩いて来る。男に余計なことを言い広められないためにも、大人しくストレス発散に付き合ってやろうと小姫は覚悟を決めるが、男の前に桜蘭が立ちはだかった。
「なんですか?これは櫛田の問題ですよ?邪魔しないでください、教育するだけですから」
「何が教育よ……あんたのせいで」
「桜蘭、まずいって」
 怒りで冷静さを失いかけている桜蘭に、小姫が小声で制止しようとするが、今にも戦闘が始まりそうな緊張感が漂っている。
「おお、怖い。やめてくださいよ、こっちは華月家のお嬢さんに手出すわけにはいかないんですから」
「じゃあここから立ち去って」
「それはできませんねぇ」
 男がさらに数歩前に出ると、桜蘭は杖を振り上げる。桜蘭の周囲からいくつもの太い木の根が地表を突き破り、男の方へ根の先端を向ける。巨大な触手のような根の先端は刃物のように硬く鋭い。
「それ以上近づくとどうなるか分かりますよね」
「はぁ……自分が何してるか分かってるんですか?これは威与様に報告させてもらいますからね」
 男はわざとらしく溜息を吐き、意地悪くにやりと笑って見せる。小姫は軽くパニックになり、何が最善択か分からなくなり、黙って見ていることしかできなかった。そこへ、さらなる予想外の事態が起きた。
「報告する必要はない。全て知っている」
 新たな声にその場の全員が驚いた。男が現れた方向からやって来たのは櫛田威与だった。桜蘭は怯みながらも警戒を解かず、男は勝ち誇った表情で襲われたと誇張して桜蘭を陥れようとする。
「うるさい喚くな、知っていると言っただろう」
 威与は男に文句を言いながらも隣に立ち、桜蘭に向き合う。桜蘭の後ろにいる小姫にちらりと視線を向けたが、その表情は怒りとも失望とも違う、楽しそうなものだった。
「華月の娘は元気がいいねぇ。春でこんなにも桜が綺麗だから浮かれてるのかねぇ」
 桜蘭がびくりと身を震わす。そのわけは小姫には分からなかったが、桜蘭が知られたくないことを威与に知られているのだろう。
「威与様、やっちゃってくださいよ」
「そうだな」
 男の言葉に威与が頷いて一歩踏み出す。桜蘭が後ずさるが、身を守るように木の根は威与と男に向けている。
「安心しな、華月の娘。あんたは傷つけやしないさ」
 威与は笑ってそう言うと、男の着物の後ろ側の衿を掴む。男はぽかんとして威与の方を見るが、答えを得る前に身体が空中に放り出された。勢いよく、真っ直ぐに桜蘭の少し左側へ男の身体が飛んでくる。小姫も桜蘭も理解できず、男の行方を視線で追う。一秒もない時間だった。
 男の身体は桜蘭が構えていた木の根に突き刺さる。ちょうど心臓がある位置に深々と刺さり、背からは血に濡れた木の根が突き出ていた。
「い、よ、さま……」
 男は即死せず、助けを乞うように威与の方へ振り返る。威与は男の元まで歩き、別の根を掴んで男の首にそれを突き刺す。
 何度もグサグサと男が刺される様子を、小姫と桜蘭は目を見開いて見守る。指一つ動かすことができなかった。目の前で何が行われているのか分からない。なぜ威与は仲間であるはずの鬼を殺しているのか。
 男が完全に息絶えると、威与は水の妖鉱石とハンカチを取り出し、肌に着いた返り血を拭き取っていく。誰も言葉を発さず、ただ威与が最低限の汚れを落としている時間。
 そうしているうちに、威与が来た森の方から大勢の足音が近づいてきた。我に返った桜蘭が操っていた木の根を地中に引っ込めようとしたが、それより先に櫛田派閥の大鬼と小鬼が姿を現した。
「こ、これは……威与様、一体何が?」
 死んだ鬼に驚き、大鬼の一人が背を向けている威与に尋ねる。威与はニイッと口の端を吊り上げ、声を抑え、肩を震わせて笑う。桜蘭と小姫から見れば恐ろしい形相で笑っているが、背後の鬼たちには仲間を殺されて泣いているように見えた。
「間に合わなかったよ。この小娘にやられた」
 威与は桜蘭の目を真っ直ぐ見つめ、悔しそうに声を震わせて言った。全く悲しみなど感じられない、残酷な表情のまま。
 
「捕らえろ。父上と母上にも伝えてこい。華月家へ向かうぞ」
 威与がそう指示すると、大鬼数人が怒りで地を踏み鳴らして桜蘭の腕を掴む。
「ち、違う!私じゃない!」
「お前の術で死んでるだろ!反逆者め!」
 鬼たちは桜蘭の言葉を聞かず、強引に桜蘭を歩かせていく。思わず小姫も立ち上げる。
「違うんです!これは、い――」
「貴様はしゃべるな異端児!」
 大鬼が怒鳴り、小鬼が小姫に石を投げる。そう、自分は鬼の里で発言の権利すらない異端。いつもそうやって自分では何もしてこなかった。自分が我慢すればいいだけだったから。だが、今は桜蘭が危機に陥っている。
 父が死んでから、初めて小姫が牙を剝いた。
「ふざけんな……」
 低く呟いた小姫。鬼たちはまさか反論されるとは思っておらず、疑問符を浮かべて小姫を凝視した。
「友達に手ぇ出すなっ!」
 小姫は地面を強く蹴り、桜蘭の腕を掴んでいる大鬼に体当たりを食らわせる。小柄な小姫だが、大鬼の血も引いているため、そこそこ力はある。大鬼はバランスを崩してよろめいたが、すぐに態勢を立て直して片手で小姫の首を掴む。大きな手のひらはギリギリと首を締め上げ、小姫は苦しさにもがくがびくともしない。大鬼の腕に爪を立てると、大鬼は不快そうに顔を歪めて威与の方を見た。
「威与様、どうしますかコレ」
「そこにでも刺しておいたらどうだ?」
 威与は桜蘭が出現させたままの木の根を指さす。大鬼は桜蘭を別の鬼に預け、小姫の首を掴んで死んだ男の傍までやってくる。まだ使われていない根を引き寄せ、そこに小姫の腹を突き刺す。
「ぐっっっ!う、がっ!!!」
「小姫!!!!!!!」
 首を絞められて声も出せず、身体を貫く痛みに手足をバタつかせる。背骨を損傷し、身体に力が入らない。大鬼は根が突き出ている地面まで小姫を突き刺し、さらに抜け出せないようにと、四肢にも別の根を杭のように刺して地面に固定する。ようやく首を解放され、咳き込みながら苦痛の叫びを上げる。
 鬼たちの足音と桜蘭の自分を呼ぶ声が遠のいていく。側に一つだけ残っている足音、威与が小姫の顔を覗き込む。
「お前はよく働いてくれたよ。華月と親しくなり、あの娘は異端児のお前を守って櫛田の鬼を殺した。あーあ、方針発表の直前にこんなことになるなんて、華月は終わりだなぁ」
「うぐっ、最初から、そのつもりで……」
 憎しみを込めた目で威与を睨み、口から血を流しながら苦しげに言葉を発する。去年桜蘭と威与に会いに行ったときから、この女は仕組んでいたのだ。あの時の不気味な笑み、気持ち悪いほどすんなり進んだ話はこういうことだったのか。
「今日は華月の方に用があるからな。お前の反抗への罰は明日にしてやる。そこで大人しくしておけ。逃げたらあの娘がどうなるか……いや、その状態では回復も追いつかんか」
 威与は小姫の腹から突き出た太い根をゆさゆさと揺する。胴体がちぎれそうなほど大きく開いた穴がさらに押し広げられ、小姫は悲鳴を上げる。威与はふんと鼻で笑い、鬼の里へ戻って行った。
 怒りと痛みで涙が止まらず、手足も胴体も縫い付けられて動けない小姫は絶叫する。何を言っているか自分でも分からないが、威与への怒りが爆発していた。叫ぶたびに腹が痛み、血が込み上げてくるがどうでもいい。今桜蘭を助けにいけないのであれば、自分がどうなろうが関係ない。
 小姫の百年間の恨みが、思考も心も黒く染め上げる。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしねしね!!!!!威与も櫛田も大鬼も小鬼も、みんな殺したい。自分の力で殺せないなら自分が死んでも呪い殺す。
 桜蘭という光を知ってしまったから、心の氷という鎧を溶かしてしまったから、今までのように耐えることができなかった。明るい世界に片足を突っ込んだせいで、普通だった扱いが嫌になった。どうして自分ばかりあんな扱いを受けた?なぜ誰も止めてくれなかった?なぜ唯一の救いの存在を奪う?
 小姫の呪詛は咆哮となり、声が枯れるまで虹の森の一部に響いていた。
『ほう、なかなか面白いやつがいるではないか』
 そんな小姫の怒気につられてきた存在。夕方の薄暗い上空から小姫を観察し、気に入ったと霧化させていた身を実体化させてそちらへ飛んでいった。
 叫び疲れてからも、小姫は恨みの感情を煮えたぎらせていた。木の根が刺さったままで回復もできず、身動きも取れない現状。どんどん弱っていくはずだが、小姫の強い憎しみは意識をはっきりさせるだけの力があった。
 すると小姫の視界に、黒い何かが映る。何もなかった空に黒い大きな塊が現れ、こちらへ向かって降りてくる。巨大な幽霊のようなそれは禍々しい瘴気を纏っており、膨大な妖力を持っていることが一目で分かった。頭と思われる場所が十字に赤く光っていて、身体からは無数の長い腕が生えている。その異形の頭の上に黒い棘のついた輪が浮いている。
 堕落族――小姫の脳裏にその単語が過ぎる。創造神にも匹敵する力を持つとされている存在で、命や負の感情を喰らい、幻夢界を破壊する者たち。この霊のような姿の異形は間違いない、堕落族の頂点である堕天霊(だてんりょう)だ。
『我を見ても動じんか、やはり……』
 堕天霊は脳に直接響くような不思議な声でそう言う。何のことだと小姫は眉をひそめるが、すぐに気づいた。誰もが恐る圧倒的な相手に対して、自分は恐怖を感じていなかった。威与たちのことで頭がいっぱいでそれどころではなかったという方が近い。
『貴様の負の感情はそこらのやつとは別格だな』
 堕天霊は楽しそうに言う。自分を食べたいのだろうか。ここで殺されるならそれでもいい。怨霊になってでも鬼の里を呪い殺すつもりの小姫は、死への恐怖など微塵もなかった。
「殺すなら勝手にどうぞ」
『まあ、食うのも美味そうではあるが、それだけではつまらない』
「何が目的です?……あ、そうだ。私だけで足りないなら、鬼の里のやつらも全員食べたらどうですか?」
 小姫は冗談混じりに笑いながら言う。桜蘭だけは逃してほしいが、こんな大物がそんな慈悲はくれないだろうと、小さな希望を嘲笑する。
 堕天霊は黙っている。目のない頭にじっくり見つめられているようで居心地が悪い。
『貴様が食いに行ったらどうだ?』
「え?ははっ、行けたらいいですねぇ」
 堕天霊の意外な言葉に驚きつつも、力の入らないこんな状態の己の身体では無理だと首を横に振る。
『ふむ、その能力も覚醒しきっていないか』
「能力?」
 何のことだ。威与や他の御三家の鬼など、特別な能力を持っている存在は知っているが、小姫はそんなもの持っていない。鬼という種族が持つ怪力と再生力だけだ。その思考を読み取ったかのように堕天馬は言う。
『ただの鬼がそんな状態で笑えてるわけないだろう。貴様、他の鬼より再生力が強かったり、しぶとく生き残ったりしているだろう』
「……」
 思い返せば、今まで何度も死にかけるような暴行をされてきた。睡眠や休息も与えられない時もあったが、何だかんだ百年も生き延びている。大鬼でも耐えがたいであろう環境で、ハーフの小姫が。
『肉体や精神が追い詰められると力が強くなるのだろうな。負の感情由来の能力かもな』
 堕天霊は無数の腕の一つを小姫の前まで伸ばし、鉤爪のような手のひらを広げる。そこには黒い小さな霊魂があった。
『堕落族になってみないか?』
 小姫は首を傾げる。意味がわからない。堕落族に勧誘されている?
『貴様の負の感情であれば、もしかすると適性があるかもしれん。壊したくないか?貴様をこんな目に遭わせたやつも、この忌まわしき世界も』
「あの鬼たちを、殺せる……」
『そうだ』
 小姫の瞳が揺らめく霊魂に固定される。堕落族には興味ないが、力はほしい。小姫の実力など、先程大鬼に体当たりしかできず、あっけなくこんな状態になっている程度だ。戦闘の知識もなく、体型も小柄な小姫が大鬼に勝てるはずがない。しかし今、すぐ目の前に復讐に必要な力があるのだ。これを逃すわけがなかった。
「どうすればいいのですか?」
『こいつを飲み込め。堕落族の力に耐えられたら成功だ。適性がなければ貴様は跡形もなく消滅する』
 霊魂は堕天霊の手元を離れ、小姫の口元までやってくる。触れてもいないのに、心がざわざわするような不快感がする。これが堕落族の力……。
 小姫の口は笑った形で開かれ、そこに霊魂が入り込む。霊魂に実体はないはずだが、不快感の塊が実体を形取っているようだった。身体が拒絶するそれを無理矢理喉奥に押し込み、確かに飲み込んだ。
 直後、体内で何かが爆発する。
「うっ、あ、あがあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
 憎しみ、悲しみ、怒り、恐怖、絶望、嫌悪、拒絶――負の感情によって生み出される力、負のエネルギーが霊魂だったものから放出され、小姫の身体も意識もを包み込む。全てが乗っ取られそうになり、息ができない。苦しい。傷口も体内も、全身が燃えるように熱い。
 ここで負けてしまえば負のエネルギーに燃やし尽くされ、堕天霊が言ったように跡形もなく消滅するのだろう。
 小姫は飛びそうな意識の中、何とか自身の感情を見つける。鬼の里への恨み。父を殺し、小姫に絶望の日々を与え、やっと出会えた光さえも消そうとする鬼たち。
「ころ、す!!」
 この消滅と一歩隣にいる危機と負のエネルギーが、小姫の『苦境な程力を得る能力』を完成させた。小姫は唸りながら堕落族の負のエネルギーを、自身の恨みに取り込んでいく。徐々に苦しみが収まっていき、小姫と堕落族の力が混じり合って一つになって行く。
「は、ははは……やったんだ、これで!あは、あははははははははははははははははははははははは!!!!!」
 小姫は目を見開き、狂ったように身体を揺らして笑い叫ぶ。まだ身体を貫いたままの木の根が傷口を広げることなど、全く気にならない。身体の奥底から力が湧き上がり、すぐに傷口が塞がるのだ。溢れる力で痛みすら感じない。
『成功だな。さあ、堕ちろ。そして暴れてこい』
「あは、あははは、はーっ、はーっ、いや、まだですよ」
『どういうことだ?』
 小姫は笑いすぎて乱れた息を整え、夜が迫って来る空を見つめた。
「せっかくの晴れ舞台なんですから。ちゃんと皆に最期の小姫を見せてあげないと」
『ほう。なら自分のタイミングでなるといい。楽しみにしているぞ、堕天の鬼の誕生を』
 堕天霊はそう言うと、身体を霧化させ、夜と共に姿を消した。
 小姫は今すぐにでも身体を固定している木の根を排除できるし、堕落族の力を開放することもできた。しかしまだ何もせず、威与か他の鬼が明日来るまで待つつもりだ。小姫は口の端を吊り上げ、湧き上がる力を抑えて心躍らせる。これほどまでに次の日を楽しみに思ったことはあっただろうか。
 堕天霊と出会って力を得て、まだ力を開放していないというのに、小姫には変化が表れていた。妖力の向上はもちろんだが、本人も気づいていない変化がある。
 堕天霊と出会うまでは、鬼への恨みと桜蘭を救いたい気持ちで小姫は怒り狂っていた。こんな圧倒的な力を手に入れたのだから、すぐにでも桜蘭を助けに行かなければ、何かあってからでは遅いと思っていいはずなのに。しかし、あの霊魂を取り込んでから、小姫の思考は恨み一色に染まっていた。桜蘭の記憶が消えたわけではないが、恨みよりも優先順位が下がっているのだ。思い出してもすぐに頭の片隅に追いやられる。
「よかったな小姫、もうすぐお前の無念が晴らされるぞ」
 異端の鬼はくくくと笑い、目を閉じて朝の訪れを待った。
――――――
「これでよく生きてるよな」
「これが大鬼の力なんじゃねーの?さっさと運ぼうぜ」
 二人の鬼の声で小姫は目を覚ました。時間は分からないが、日は完全に昇っていて眩しい。青空には桜の花びらが舞っている。
「うわ、マジで生きてるわ。おい、大人しくしてろよ」
 小姫の周りにいるのは、若い男の小鬼二人だった。威与に小姫を連れてくるように頼まれたのだろう。持ってきた斧で小姫に刺さっている木の根を切断し、容赦なく抜いていく。また傷口から血が流れだし、小姫は痛みに顔をしかめる。フリをする。傷も妖力を集中させればすぐに塞げるが、まだ小姫を演じてそのままにしておいた。
 歩けないと判断され、手首を持ってずりずりと仰向けで引きずられる。もう一人が抵抗した時のために斧を持って小姫を監視している。そのまま鬼の里まで引きずられ、櫛田家に届けられる。
「ご苦労」
 待っていた威与が小鬼に報酬を渡して小姫を受け取る。
「みっともない姿だねぇ、お前にはお似合いか」
「……桜蘭は?」
「もう自由に家から出してもらえないんじゃないか、あの殺人娘。櫛田派閥の鬼は華月に激怒してるし、面倒な娘を持ったもんだね。ああ、それは櫛田もか」
「あんたが殺したくせに」
「そうだったかね?」
 威与が嘲笑うように小姫を見下ろし、小鬼と同じように小姫の手首を掴んで庭まで移動する。そして庭に置いていた桶を持ち、中身を小姫にぶっかける。緑がかった透明な液体は、少しツンとした薬っぽい臭いがする。回復薬だ。腹や手足の傷がみるみるうちに回復していく。そしてずぶ濡れの小姫の側に乾いた着物を投げつける。
 小姫は反抗的な目で威与を睨みながら、警戒したようにおずおずと着物を取り、服を着替える。その間に威与は目的を話し始める。
「今日の昼、華月の娘への尋問が行われる。里の鬼みんなの前でな。もちろん、お前も華月の娘を狂わせた元凶として連れて行ってやるよ。鬼たちの苛立った気持ちを受け止めるのは得意だろう?」
 小姫が着替え終えると、威与は庭の隅に準備していた枷を持ってきた。両手が鎖で繋がれている手枷、両足にはそれぞれ重い鉄球が繋がれている足枷。並大抵の力では鎖がちぎれないようにと、鬼用に強力な加工をされている。それらを小姫に装着し、しっかりと鍵をかける。
「じゃあ、そこで昼まで待ってな」
 威与はそう言って屋敷の中へ消えていった。その背中を見送り、庭に残された小姫は落胆したように膝を抱えて座る。背を丸めて顔を伏せ、肩を震わす。
 笑いをこらえるのに精一杯だった。
 正午近くになり、小姫は大鬼たちに囲まれて里の広場に連れていかれた。足の重りのせいで既に足首は擦れて血が滲んでいる。
 広場には鬼の里の多くの鬼が集まっていて、華月家や菊花家もそれぞれ家ごとにかたまっている。桜蘭は腕と胴体を縄で縛られていて、話せないように口元に布を巻き付けられている。小姫が来たことに気付き、生きていたと安心したように表情を緩めている。
 それからは威与が鬼たちに昨日の出来事を捻じ曲げて説明し、桜蘭が反論をする。桜蘭と小姫がたまに接触していたのは一部の鬼に目撃されていたようで、異端児と親しくしているというのもあって、聴衆の反応は桜蘭への疑いが強そうだ。威与が仲間を殺すというのも、簡単には信じられないのだろう。
 小姫は冷めた目で黙ったままやり取りを聞いていた。どうせ威与の思うまま、櫛田家の権力の力で思い通りにするのだろう。
「私と小姫が関わってたからって、そんなので気が狂うわけないじゃないですか!私も小姫もまともです!狂ってるのは威与様ですよ!」
 人前では冷静に振舞うことの多い桜蘭が、珍しく感情的になっている。昨日のうちに、相当理不尽な説教でも受けたのだろうか。ありもしないことを決めつけられるのは腹が立つだろう。
「随分静かではないか。昨日の威勢はどうした?」
 いつの間にか威与に話を振られていたらしい。里の鬼たちが忌々しいものを見るような目でこちらに注目している。
「どうせ私が何を言っても否定されるだけでしょう」
「本当のことを話せばいいだけだ」
 威与に話を合わせて鬼の里での安定択を取るか、真実を話して嘘つきとして罰を受けるか、どちらがいいと威与の表情が問いかけてくる。思わず小姫はふふっと笑ってしまった。威与も桜蘭も、鬼たちが全員眉を寄せる。
「別にどうでもいいですよ。大鬼が一人死んだだけでしょう?」
 小姫の発言でざわめきが起こる。異端児のくせに大鬼を軽視しやがって、無礼者、罰を与えろなどと、批判の声が次々に上がる。桜蘭はどうしたんだと驚いていて、威与ですら少し戸惑っている。
「口を慎め」
 威与の父親、櫛田家の当主が小姫に刀を向ける。あの時と同じ、小姫の父親の首をはねた刀だ。小姫の心から負の感情が込みあがってくる。
「くくくっ……、斬りたいならどうぞ、そういうのは慣れてるんです」
「舐めやがって、脅しだとでも思ったか」
 櫛田家当主は躊躇いもせずに小姫の脇腹を切り裂く。血が着物を黒く染め、足元に血だまりを作る。それでも小姫は笑ったまま態度を改めず、光のない青い瞳を聴衆に向ける。
「ほら、異端児が血を流してますよ。あんたらこういうの好きでしょ?」
 小姫の挑発に鬼たちも血管を浮かばせる。生きる価値なしと里で認知されている者から、自分たちを見下した発言をされたのだ。地位の高い大鬼はもちろん、小鬼であっても小姫よりは立場が上だ。誰かが小姫に石を投げつける。鬼の力で投げられた石は小姫の肌を簡単にえぐっていく。他の鬼もそれに続き、小姫に石の弾丸を浴びせ始める。
「ちょ、ちょっと、皆やめて!話し合いの場でしょ!威与様も何とか言ってくださいよ!小姫も変なこと言わないで!」
 桜蘭が大声で言うが、誰も話を聞いていない。
 小姫の身体はどんどん傷だらけになっていくが、比例して小姫の笑い声も大きくなる。徐々に不気味に思う鬼が増え、石の雨はぴたりと止む。
「あははははははははは、ん?あれ?もう終わりですか?こんなんじゃ、ふはっ、全然……ああ、もういいや、こんな演技!」
「お前何を言っている?」
 笑いながら訳の分からないことを言う小姫に、思わず威与が後ずさる。
「ほら、腰抜け共、もっとやれよ。お前ら差別と弱いものいじめが好きなんだろ?こっちはまだまだ元気だぞ?てめぇら鬼だろ?何にびびったんだ?」
 ドスをきかせた声で小姫が煽るが、誰も動かない。小姫の言葉だけでない、雰囲気が変わったのを誰もが理解していた。
「なんだ、つまらん。まあいいか。これが恐怖を向けられる感覚か、いいじゃん。お前らいつも私からこんな美味い感情向けられてたんだな」
 小姫が一人はしゃいでいると、威与が櫛田の大鬼の元まで下がり、命令を下した。
「あいつを殺せ。もう奴隷としても使えん、用済みだ」
 刀を持った大鬼五人が小姫を取り囲む。
「おい威与、そんなに怯えてどうした?恐怖はこれから始まるんだから、もっと楽しんで行けよ!」
 小姫は大きな声でそう言い、力を開放した。小姫中心に禍々しい風が発生し、鬼たちは顔を腕で覆う。傷だらけになった小姫は自身の特殊能力、苦境なほど力を得るという特性で、里の鬼とは桁違いの妖力を纏っていた。傷は全て治っており、黒い闇のエネルギーを全身から溢れさせている。両手を繋いでいた鎖を簡単に千切り、足枷の鉄球を踏み砕く。曲がった大きなツノと瞳は赤く染まり、頭上に棘のついた黒い輪が浮かぶ。
 誰もが知っていた。あの輪は堕落族の印であると。
「お前らが小姫に与えてきた恐怖、苦痛、絶望、全部この堕天鬼に寄越せ!」
 堕天鬼は妖力の波動で刀を持った五人を吹き飛ばす。その波動に触れた大鬼は妖力の当たった場所が黒く変色し、そこから身体が跡形も残らず消えていく。怯え切った鬼たちが慌てふためいて広場から逃げていく。
「あはははははははははははははは!たまんねえや!ほら、もっと怯えろ!」
 堕天鬼は妖力の塊をばらまきながら、目についた鬼を追って命をもぎ取っていく。大鬼の頭ですらも殴れば簡単に破片に、里の建物は積み木のように簡単に崩れ、周囲の森までも生命力を奪われて枯れ木となっている。たったの数分で鬼の里は瘴気に侵された廃村に成り果てる。命や恐怖という負の感情を喰らって力を強める堕落族。鬼という強い種族から大量のエネルギーを奪い、堕天鬼は至極の時間を楽しんでいた。
「こんな雑魚共が身分に物言わせて威張ってたのか」
「ま、待て、小姫!いや、孫よ!」
 櫛田家の屋敷だった瓦礫の影で、腰を抜かした櫛田家当主が堕天鬼を見て命乞いをする。
「何が孫だよバーカ。父親と同じ殺し方してやるよ」
 堕天鬼は櫛田家当主に馬乗りになり、肩を地面に強く押しつける。そして堕天鬼自身の爪で当主の首を突き刺し、肉も骨も横へ無理矢理に引き裂いて首をとばす。噴き出す血飛沫を浴びながら、手を払って指についた肉片を落とす。
 次の獲物はと周囲を見回すが、里は破壊された建物や堕落族の力で汚染された地面、そこに転がる鬼の肉塊と血ばかりだ。わずかな生き残りは遠くへにげてしまったのかもしれない。
「おっと」
 少し離れた瓦礫の側から視線を感じる。知っている妖力、威与だ。堕天鬼は身体を霧状にできる堕落族の特性を使って一瞬で威与の前に姿を見せ、いつもされていたように威与の首を掴み、頭を地面に叩きつけるようにして押し倒した。脳震盪を起こしながらも威与は堕天鬼の腕を掴み、痛みに歯を食いしばっている。櫛田家当主よりはしっかりしているようだ。威与からは恐怖よりも怒りや憎しみが多く伝わってくる。どれも堕天鬼を喜ばせる感情ではあるが。
「よう、母上様。あんたの父親は死んだぜ」
「知ってる」
 威与は苦しそうに言葉を吐く。そして堕天鬼が威与から離れて立ち上がろうとした隙に、隠し持っていた刀を堕天鬼の首めがけて振るった。堕天鬼はそれを素手で受け止める。
「堕落族ってすごいんですよ母上様。こうして触ったもの、なんでも無に消せるんです」
 堕天鬼が握っていた刀身が黒く変わり、空気中に溶けるように消えていく。威与は刀を手放し、悔しそうに堕天鬼を睨む。刀身を半分以上失った刀が軽い音を立てて地面に落ちた。不意打ちが失敗した威与にできる対抗策はもう残されていない。
「殺すなら殺せ」
「じゃあ遠慮なく?」
 堕天鬼は威与の刀を手にして、不自然に先がなくなった刃を威与の首へ向ける。
「じゃあな」
 目を閉じで死を待つ威与だったが、数秒経過しても痛みはなかった。威与が薄っすら目を開けると、堕天鬼がにやにやして刀を遠くへ放り投げた。
「お前は殺さないさ。今森の方へ逃げて行った鬼も生かしてやるよ」
「……ははは、随分お手柔らかじゃないか」
「ああ、見逃してやる。だからお前は鬼の里をもう一度、いや、何度も復興させろ。そのたびに壊しに来てやるからさ。お前の周りから全てを奪ってやるよ。簡単に殺すより、長く楽しめそうだろ?」
 堕天鬼はもう威与に用はないと背を向けた。
「次はこうも簡単にはいかない、殺しておかないと後悔するぞ?」
「やってみろよ。私はもう鬼とは次元が違うんだよ。おまえら程度が何やったって、全部絶望に叩き落としてやる」
「……とんだ化け物を生んでしまったな、私は」
「掟を破るからそうなるんだ」
 皮肉を威与に吐き捨て、堕天鬼は歩き出した。壊した鬼の里を一周してその光景に満足して空を見上げる。色の失われた里と違い、穏やかな青空が広がっている。そこに一瞬、黒い霊魂のようなものの姿が見えた。堕天霊が一連の出来事を見ていたのだろう。堕落族として暴れたのを確認できたからか、すぐに姿を消して行った。
 堕天鬼も里を去ろうと、堕天霊が向かった方の森へ歩き出す。
「ま、待って!」
 後ろから聞き覚えのある声に引き留められた。振り返ると、五体満足で杖を持った桜蘭がいた。土埃で所々汚れているが、大した怪我はないようだ。
「小姫、どうして堕落族に……?」
「スカウトされたんだよ」
「昨日、なんだね?」
「そうだ」
 桜蘭は悔しそうに杖を強く握る。彼女からは堕天鬼への負の感情が感じられない。
「私が憎くないのか?桜蘭の両親も殺したぞ」
「分からない。こんなことになって悲しいけど、皆小姫に恨まれても当然のことをしてたから」
「とことん良い奴だな」
 堕天鬼は呆れて笑った。純粋に、心から呆れた。小姫にも堕天鬼にも、桜蘭はやはり眩しすぎる存在だったのだ。
「これからどうするの?」
「さあな。堕落族の仲間にどうすべきか聞いてみるつもりだ」
 手をひらひらと振って別れようとしたが、桜蘭にその手を掴まれた。これまでに見たことないような、弱弱しく泣きそうな顔をしている。
「本当に堕落族のところに行っちゃうの?もう小姫を縛る里はないんだし、二人でどこか遠くで静かに暮らしたり――」
 桜蘭の言葉を首を横に振って遮る。
「私は堕落族だ。もうただの鬼じゃない。多分今までのことも、桜蘭のことも時期に忘れる。今も記憶が堕落族の力に浸食されてるのが分かるんだ」
 父親や威与、桜蘭など印象的なことはまだ覚えているが、これまで小姫を培ってきた日常の記憶が思い出せない。散々酷い目に遭ってきたということは分かるが、その詳細がどんどん消えていく。桜蘭と過ごした一年の記憶も消えていく。堕天鬼という存在には鬼を恨むという記憶以外は必要ないからだ。
「だから次私に会うことがあっても、そいつは桜蘭のことを知らないただの堕落族だ」
「……そう、どうしようもないんだね」
 堕天鬼は後ろを向く。桜蘭の涙は見たくなかった。きっとこの感覚も今だけなんだろう。
「ごめんよ、桜蘭の大切な小姫を殺してしまって」
 最後にそう言い、堕天鬼は鬼の里を去った。
――――――
「桜蘭様、どちらへ?」
「ちょっと散歩だよ」
「今夜は御三家での会議がありますが」
「それまでには帰る」
 桜蘭は引き留めようとする従者から逃れるように屋敷を出て、虹の森へやって来る。従者がついてきてないことを確認し、ふぅとため息を吐く。
 華月家の当主となってから二千年程経った。鬼の里は復興し、以前ほどではないが再び虹の森で力をつけていた。差別も当時よりはマシになっていたが、完全になくなったわけではない。相変わらず小鬼は大鬼の下で働かされているし、御三家の鬼は貴族のような扱いだ。
 桜蘭は差別をなくすように華月家の方針を変更したかったが、なかなか大鬼の理解を得られずにいた。せっかく櫛田家に並ぶまでに大きくした華月家の権力を手放すわけにもいかず、他より小鬼の待遇が少し良い程度に留まっていた。最近は里の外との関係を重視する華月家の方針を利用し、種族平等を目指して弱者を救う活動を個人的に行っていた。まだ鬼たちには理解されないようだが。
 春の陽気を楽しみながら、桜蘭は虹の森にある大きな桜の木へやって来る。いい思い出と悪い思い出、両方が存在するこの場所だが、桜蘭は毎年ここへ来て桜を眺めていた。
「今年も変わらず綺麗だねぇ」
 一人呟き、桜の下でゆっくりしようと幹に近づいたところ、反対側に先客がいるようだ。幹にもたれて座っている。相手を確認しようと回り込みかけ、はっとして足を止めた。赤いツノと短く乱れた黒髪、頭上の棘のついた黒い輪。相手もこちらに気付いたようで、だるそうに顔をこちらに向け、目が合うと顔をしかめた。桜蘭は動揺を抑えるために咳ばらいを一つする。
「やあ堕天鬼、一年ぶりかね?」
「うぜぇ……」
 堕天鬼は興味なしと桜蘭から顔を背ける。桜蘭は呆れたように笑い、堕天鬼の反対側の幹にもたれ、あれこれ思い出を呼び起こす。
 一年前、遺跡森の神社を巡った争いにて、桜蘭は念願の堕天鬼と再会した。やはり堕天鬼は桜蘭のことを覚えておらず、堕天鬼に殺されかけて最終的には敵対する形で終わってしまった。今は気分ではないのか、こちらの存在を消そうとする素振りは見えなかった。
「あんたも桜好きなのかい?」
「別に」
「そう。……ここは大切な友達と最後に過ごした場所でね。毎年この時期になるとあの頃が恋しくなるんだよ。いろいろ辛い状況だったけど、あの子と過ごした時間は楽しかった」
「くだらねえ……」
 堕天鬼は不快そうに鼻で笑う。堕落族にとってこの手の話はちっとも美味しくないのだろう。
「もうその子と一緒に桜を見ることはできないけど、こうして誰かと一緒にゆっくりできて良かったよ。久しぶりだ」
「私はお前とゆっくりしてるつもりはないが」
「それでいいさ、気にしないでくれ」
 桜蘭は青空を眺める。今日も虹がかかっている。あの時と同じだ。あの子とは見れなかったが――桜蘭は微笑んで目を閉じた。二千年ぶりだね、と心の中で呟いて。
 少しして、じゃらりと堕天鬼の腕の鎖が音を立てる。堕天鬼が立ち上がって伸びをしていた。
「もう行くのかい?」
「ああ」
 桜蘭も立ち上がり、堕天鬼の方を向く。堕天鬼は背を向けていて、何も言わずに歩き出す。
「っ!小姫!」
 思わずそう呼び止める。堕天鬼がイラッとした表情で振り返る。赤い瞳にギロリと睨まれ、背筋がぞわぞわする。
「その名を口にするなと言っただろ。前に殺しかけたこと忘れたか?次言ったら殺す」
「はは、すまない、どうしてもあんたがその子に似ててね」
 桜蘭が謝罪すると、堕天鬼は悪態を吐きながら虹の森へと消えて行った。その背中を寂しく思いながら見送る。
 以前堕天鬼は小姫という名前に覚えはないが、自分のことをそう呼ばれるのは不快だと言っていた。本当に覚えていないのか、僅かにでも心当たりがあるのかは不明だが、桜蘭は後者だと思っていた。最初に堕天鬼を小姫と呼んだ時、堕天鬼は逆鱗に触れたかのように怒り散らしていた。どこかに小姫の記憶が残っており、それを封じているのではないかと、願望に近い予想をしていた。
「どうせ死ぬなら、あんたに殺されるのも悪くないかもねぇ」
 そう呟いた言葉は春風に掻き消され、花吹雪と共に空へ舞った。