各地で雨が多くなる季節、湿間。野老屋の森上空も灰色の雲に覆われて、しとしとと静かな雨が何日も森を濡らしていた。
今日も天気は雨。じっとりと体にまとわりつくような湿った空気で熱がこもり、少し動くだけで汗ばむような日だった。
「はぁ。こうも雨ばかり続くと憂鬱になってきますね」
木霊の少女、美来風沙梨(みらい かさり)は窓の外を見てため息をつく。テーブルに肘をついて、何をするわけでもなく一人ぼーっと時間を過ごす。そう、風沙梨は今一人であった。
「師匠は今頃どうしてるんですかねぇ」
風沙梨の同居人の獣天狗、紅河鈴葉(こうかわ りんは)。風沙梨が師匠と呼び慕っている存在だが、鈴葉は現在天狗の山である紅葉岳に帰っていた。鈴葉の親友であり、紅葉岳を治める大天狗の娘であるリンに頼み事で呼び出され、昨日から風沙梨の家を出ていたのだ。ちなみに師弟関係ではない。
明るい彼女がいない家は静かで寂しい感じがする。雨と相まって風沙梨の気分を沈めていく。
「ん?」
急に風沙梨は頭上の耳をピンと立て、テーブルに項垂れていた姿勢を正す。風沙梨が聞き取ったのは森の声だ。木霊の風沙梨はこの森、野老屋の森で生まれた。木霊は生まれた森の声を聞いたり見たりすることで、森で起こっていることを知ることができる。
風沙梨は森の声を聞き取ろうと意識を集中させる。
――力……水……石……大きい
「んー?妖鉱石ですか?大きい?」
生活用品にも通貨にも戦闘道具にも使える万能の存在、妖鉱石。力の弱い妖怪で、定職にも就いていない風沙梨にとっては、拾うことでしか手に入れられない物。もちろんそんな便利な物が落ちていれば誰もが回収したがるため、運が良くないと手に入らない。風沙梨にとって貴重品だ。
森はその妖鉱石、しかもかなりの大きさのものがこの森にあると言っている。
「ふーん、なるほどなるほど」
風沙梨は森からの情報を頭の中でまとめ、にやにやと悪そうな笑みを浮かべる。妖鉱石は大きければ大きいほど価値が高い。それが森に落ちているのならば、喉から手が出るほど欲しい。
「誰かに見つけられる前に行かなくては!」
風沙梨はうきうきで早速身支度を始めるのであった。
右手で赤い傘を差し、左手には妖鉱石を回収するための大きめの巾着を持った風沙梨。念の為に、いくつか戦闘用の妖鉱石も身につけていた。曇り空のせいで薄暗い森を、自分の庭のようにずんずんと進んで行く。
風沙梨は百年程この森に住んでいる。森の声を聞く能力で失せ物探しを請け負うこともあり、土地勘なら右に出る者がいないくらいだ。同じ目的の者がいないか、自慢の耳で周囲を探り、真っ直ぐ目的地へ向かう。
妖鉱石は風沙梨の家から北東の方で、ほとんど虹の森に近い場所だった。静かな野老屋の森に比べ、虹の森は住んでいる妖怪が多い。なるべく早めに回収したいところだ。
はっとして風沙梨は足を止める。誰かいる。地上ばかり警戒していたため、少し相手の接近に気づくのが遅れてしまった。相手は上だ。姿は見えないが、こちらに向かって飛んできている。妖力の気配を隠そうともしていない。敵意はなさそうだ。警戒しながら空を見上げていると、相手はものすごい速さで姿を現し、風沙梨のいる地上に降りてきた。
「どうもどうも、風沙梨さん!こんな日に会うとは奇遇ですね!」
「うわぁ」
「うわぁって何ですか、失礼な」
風沙梨はあからさまに嫌な顔をして、目の前の賑やかな朱燕を見た。傘は持っておらず、手には双眼鏡が握られている。だから上空から風沙梨を見つけられたのだろう。
「皐さんこそ、傘も差さずに何してるんですか?」
「ふふん、雨程度、私の能力でどうにでもなるのですよ」
皐は自慢げに巻物をちらつかせる。彼女は巻物に書いたことを引き起こす能力を持っている。
「私は雨に濡れないと書いてしまえば、傘など必要なくなるのです!これが真実です!」
「は、はあ……」
「まあ、私は亜静さんにちょっと頼み事をされましてね」
亜静といえば虹の森に住む魔猫だ。皐を鬱陶しがっているが、何だかんだ仲が良さそうな人物である。
「探し物ですか?」
「ええ。亜静さんが目をつけていた魔物に逃げられたとかなんとか。雨に濡れたくないからって私に探させるんですよ。全く人使いが荒いんですから。大型の魔物なんですが、こっちには来てませんよね?」
風沙梨は目を閉じて森に耳を澄ます。木々の視界を借りてざっと森を見て回るが、大型の魔物は見当たらない。
「いなさそうですね」
「ですよねぇ〜」
皐はもう疲れたとため息をつく。そして好奇心旺盛な目をして風沙梨を見る。嫌な予感がする。
「で、風沙梨さんは何を?こんな雨の日にわざわざお散歩ですか?村とも違う方向ですし」
「い、いえ、別に」
皐は情報屋を名乗っており、めぼしい情報があればしつこく詮索してくる。大きな妖鉱石があるなんて知られたら、絶対に一目見ようとついてくるだろう。
「ふふーん、私の目は誤魔化せませんよ。何か隠したいことがあるのですね?情報量は支払いますから」
皐が何種類かの妖鉱石をちらつかせる。大きさは三センチ程度の小さい物だが、店で定食を頼めるくらいの物だ。
普段なら飛びつく風沙梨だが、それよりも大きな妖鉱石が目的の今は動じない。何もないと皐に厳しい態度をとる。
「金欠で嘆いている風沙梨さんが妖鉱石に食いつかない。となると、妖鉱石絡みの何かですかね。ふーん」
皐はにやりと笑ってわざとらしく風沙梨の顔を覗き込む。図星を突かれた風沙梨は言い返せず、面倒臭さと苛つきの混じった視線で皐を睨む。
「魔物探しも飽きましたし、気分転換にご一緒させてくださいよ〜。安心してください、横取りはしませんから。私は幻夢界にある真実をこの目で見たいだけですよ」
「もう、勝手にしてください。どうせ追い払ってもつけてくるんでしょ」
「もちろん!」
「はぁ……。絶対カケラもあげませんからね!」
やっぱり妖鉱石なのかと内心で思う皐。
風沙梨は時間を食ってしまったと少し焦り、皐を引き連れて目的地へと再び進み出した。
歩くにつれ、小降りだった雨が勢いを増していく。空を覆う木の葉が多少の雨を防いでくれるが、葉から零れる大粒の雫が傘にぼとぼとと落ちてくる。
「本降りになってきましたね。まだ歩きそうですか?」
「もうすぐですよ」
傘を差さずにのびのびついて来る皐。少し羨ましいと思いながらも、風沙梨は辺りを見回す。正面に見えている低木の茂みを抜けた先が目的地だ。はやる気持ちと、この朱燕が余計なことをしないかという心配が入り混じる。皐よりも早く見つけてしまおうと、早足で茂みを回り込んで向こう側に出る。
そこの景色を見て、風沙梨は何となく違和感を覚えた。
「なんでしょう……荒れてるような」
ここは道もなく、年中落ち葉が積もっているのだが、ぬかるんだ泥と水たまりが目立つような気がする。
「そうですか?雨の影響じゃありません?」
風沙梨の疑問に、皐は気にしすぎだと笑う。妖鉱石を狙う輩がいないかと神経質になっているのだろうと、風沙梨は自分に言い聞かせる。そして足元の水たまりをできるだけ避け、妖鉱石を探し始める。
「で、どんな妖鉱石なんですか?属性は?大きさは?」
皐の質問攻めが鬱陶しい。無視して茂みの中や岩陰など、怪しい場所を覗いて回る。程なくしてその妖鉱石は見つかった。ぬかるんだ地面がむき出しになっている場所の水たまりから、青い石がほんの少し顔を出している。
風沙梨は思わず息をのみ、自然と忍び足になってそちらに近づく。足を踏み出すたびに泥がぐにょりと足形に形を変え、靴に水が染み込んでくる。不快感に口を歪めたが、その程度で足は止めなかった。皐がぶつぶつと文句を言いながらついてきている。
水たまりを覗き込む。水は茶色く濁っているが、突き出た青い石は間違いなく妖鉱石だ。
「おお、これが目的のブツですか?うーん、そんなに大きくは見えませんが」
皐に言われた通り、風沙梨も少し期待外れに思っていた。見たところ拳くらいのサイズだ。それでも普通よりは大きいサイズなのだが、特大サイズのものを想像していたため、現実を突きつけられたような残念さに風沙梨は肩を落とした。
「まあ、十分生活の足しにはなりますよね。中サイズくらいですか」
「貧乏な風沙梨さんにとっては思わぬ収入じゃないですか。良かったですね!」
「ふん!どうせ貧乏ですよ――あれ?」
皐を睨みながら、屈んで妖鉱石を拾い上げようとした風沙梨だが、その手は水たまりの妖鉱石を掴んだまま引き抜かれなかった。
「あ、あれ?これ埋まって……ぬけ、ない」
「そんな大げさな~」
皐がどれどれと妖鉱石に触れる。やはり引っこ抜けず、揺さぶろうにも周りの柔らかい泥がびくとも動かない。
「えぇ……岩サイズの物が埋まってるってことですか?こんなの見たことありませんよ」
「岩サイズ……!絶対に手に入れなければ」
風沙梨の目に炎が宿る。傘を放り投げ、服が泥水で汚れるのもお構いなしに、妖鉱石の周りの泥を掻き分けていく。皐は泥がかからないようにと数歩離れる。そしてずぶ濡れで地面を掘る風沙梨を観察して首を傾げる。
「水の妖鉱石ですか。こんな巨大な妖鉱石が隠されもせずに落ちてるなんて不思議ですね。野老屋の森にあまり人が来ないといっても、これほど力を持つ妖鉱石が埋まっていれば誰かに気づかれそうなのに」
「でもあるんですから、ラッキーじゃない、ですか!はぁ、はぁ……」
風沙梨は掬った泥の塊を放り投げ、肩で息をする。
「ついてきたんですから、見てないで手伝ってくださいよ」
「報酬は?」
「これの全貌が見れます」
「実際見たいのでそれでいいでしょう」
皐は巻物を広げ、筆で何かを書き始める。
「濡れたくなければこちらに来てください」
「もう今更なんでいいです」
「そうですか」
皐は警告しましたからねと言い、巻物から妖力の塊が浮かび上がった。それは風沙梨の掘っている妖鉱石の元へ飛んで行き、掘られて深く溜まっていた水を吹き飛ばした。風沙梨が顔面に泥水を浴びる。
「皐さん!!!」
「言ったじゃないですか」
「濡れるというか、汚れるじゃないですかこれ!」
「それも今更でしょう」
風沙梨は文句を言いながら袖で泥を拭い取る。一応妖鉱石周りの水が減り、作業はしやすくなった。この朱燕、自分の手は汚さないつもりだ。
膝が納まるほど深く掘ったが、妖鉱石はまだ抜ける気配がない。埋まっている部分はさらに太くなっており、半分も地表に出ていないのではないかと思えてくる。
「誰か応援呼びません?鈴葉さんはいないのですか?」
「師匠は今紅葉岳です。あまり他の人に知られたくないですが……」
このまま手で掘っていたら日が暮れてしまう。少し休憩と風沙梨は伸びをして体をほぐす。このままにしてここを離れるのも誰かに見つかりそうだし、どうしようかと必死に考える。
「私と皐さんじゃ攻撃術で掘り起こすなんてできないし、かといってこのままだと先に体力が尽きそうだし……やっぱり誰かに協力を――いや、知られたら独占できなく」
「私が手伝ってあげましょーか」
「ええ?いいのですか?」
突然背後からの協力者の声に、ついさらりと返事をした風沙梨だが、皐は目の前にいる。では背後にいるのは誰だ。飛び退くように皐の隣に行き、現れた人物を確認する。背丈は風沙梨と同じくらい低い少女で、鮮やかなオレンジの髪に大きな黒いツノ。背からは鱗に覆われた蝙蝠のような翼、太く力強い尾も赤い鱗に覆われている。赤い服を身に着け、金の装飾にはたくさんの妖鉱石が埋め込まれている。見るからに高貴な存在。
「あ、あなたは……!」
遠く離れた地で出会った龍人の少女。もう二度と会うことはないと思っていた幼き少女がいた。サルザン地方ドラグシラ王国女王、エリシア・ドラグシラだ。
「おお、ドラゴン!この辺に絵都子さん以外にもいたんですねぇ」
「違いますよ、この方、エリシアさんはサルザンにいるはずです」
「さる……?」
何のことだと首を傾げている皐をそのままに、風沙梨はエリシアをまじまじと観察する。荷物も傘も持たずに雨に濡れている少女は、驚いている風沙梨を見て得意げに胸を張っている。
「久しぶりね、風沙梨!」
「ど、どうもお久しぶりです。どうしてあなたがここに?」
「鏡の人に連れてきてもらったのよ」
あいつかと風沙梨は頬を引きつらせる。鏡を使ってあらゆる場所に転移することのできる胡散臭い操り人形。余計なことばかりし、へらへらと舐めた態度を取る彼女と、風沙梨は最悪に相性が悪かった。エリシアのような一国の女王を誘拐してくるとは、何を考えているのだ。
「鈴葉に会いたかったのに今いないらしいじゃない。暇だから帰ってくるまでこの辺で遊ぼうと思って」
そういえばエリシアも鈴葉に懐いていたなと風沙梨がむっとしていると、エリシアは足元のぬかるみも気にせず、風沙梨の掘っていた穴まで小走りにやってきた。装飾のついた靴が泥に沈む。
「ちょっと、駄目ですよ!靴下まで汚れちゃってるじゃないですか!ってか傘差しましょうよ!女王様がずぶ濡れになってるなんて知られたら大変ですよ!」
「いいわよ。泥なんて洗えば取れるでしょ?雨も気持ちいいしこのままでいいの!ところでこれ何?宝石?」
エリシアの立場を気にして小言を言う風沙梨と、それを無視して無邪気にはしゃぐエリシア。皐は二人を見ながらふむふむと考えをまとめる。
「異界送りさんの力で遠方の……さるざん?の女王と知り合い、その方がこっちに来てると。これはいろいろ知れそうですね、今日はついてます。
あー、ほら、風沙梨さん。手伝ってくれるって言ってましたし、ここはお言葉に甘えましょうよ!巨大妖鉱石が待ってますよ」
「これ妖鉱石なの?おっきいわね!」
皐の言葉で風沙梨の視線が妖鉱石に向き、エリシアもしゃがみこんで妖鉱石に触れる。服の裾がどろどろになっているが、どうでもいいらしい。
「もう……怒られても私たちは巻き込まないでくださいよ。手伝ってくださるのは助かります。報酬もいらなさそうですし……」
「任せなさい!」
風沙梨が最後にぼそり呟いた言葉は聞こえなかったようで、エリシアはやる気満々のドヤ顔で肩を回してみせる。何か策があるのかと、風沙梨と皐は黙って見守る。
エリシアは足を開いて腰を落とし、妖鉱石を両手で掴む。妖鉱石全体の大きさを確かめるように揺する。風沙梨と皐が同じようにしてもびくともしなかった妖鉱石が動き、地面と石の間にわずかな隙間ができた。
「さすがドラゴン!私たちとはパワーが違いますね!」
皐が感心して妖鉱石を覗き込む。
「かなり深くまでありそう。一、二メートルどころじゃないわ」
「でかすぎるでしょう!?」
風沙梨が思わず叫ぶ。エリシアはさらに妖鉱石を揺すり、引っこ抜けないかと試してみるが、龍人の力をしても無謀な挑戦だった。ぐぬぬと歯を食いしばって力を込めるエリシア。力んだせいか、口の端から炎が噴き出す。側で覗き込んだいた皐が、間一髪で飛び退いて焼き鳥になるのを免れた。
エリシアが奮闘し、風沙梨も地面を掘る。皐はやはり直接手伝うつもりはないようで、二人を眺めながらエリシアにサルザンのことを質問攻めにしていた。
そして三十分程経ち、穴は風沙梨の足が納まるほどの深さになった。それでも底が見えない妖鉱石。土は柔らかめであるが、素手で掘っていた風沙梨は指に痛みを感じていた。水を含んだ土を投げ飛ばしていたため、腕もだるく重い。風沙梨は休憩と言って穴から這い出て腰を伸ばす。欲望と諦めの選択が風沙梨の脳内でぶつかり合う。
「もう明日にしません?ちゃんと道具とか用意して――って、私がスコップとか持ってこればよかったのでは?」
「そうですよ、特等席でわーわー騒いで……。とはいえ私も目先のことしか考えていませんでした。我々馬鹿なのでは」
風沙梨と皐のテンションが下がる中、穴に入っていたエリシアがぎゃっと悲鳴を上げた。風沙梨がぐったりしながら様子を見る。
「どうしました?」
「揺すってたら、妖鉱石が動いた!」
「もうすぐ抜けそうってことですか?」
「違うの!生きてるみたいに動いたの!」
何を言ってるんだと風沙梨は溜息を一つ吐く。直後、地面がぐらりと揺れた気がした。エリシアが穴から出てきて、見てと妖鉱石を指さす。
妖鉱石がもぞもぞと動いている。そしてやはり地面も合わせて揺れている。地震ではない。
「下がって!」
エリシアが鋭い声で言い、穴から距離を置く。何が何だか分からないまま、少し遅れて風沙梨と皐もエリシアに続く。
先程まで三人が立っていた地面が盛り上がり、地中から何かが出てくる。お目当ての妖鉱石も土の塊と共に盛り上がっている。
「こ、これは……」
地中にいたものが地上に姿を現す。四、五メートル程の巨大なカエルのような魔物。背にはいくつもの巨大な水の妖鉱石が生えている。風沙梨たちが掘り起こそうとしていた物もそこにある。
「ああーーー!これ亜静さんが言ってたやつですよ!そこらにいる魔物とは桁違いに強いんですって!魔物まで見つけられるなんて、今日は本当についてますね!」
皐が指を立てて説明し、はははと笑う。巨大ガエルは眠そうに欠伸をした後、三人を視界に捕えて舌なめずりをする。
「何がついてるですか!そんな強い魔物にめちゃくちゃ狙われてますよ、私たち!」
風沙梨が半ば発狂して皐を怒鳴りつける。皐は笑顔のまま風沙梨をなだめる。
「落ち着いてください風沙梨さん。こんな化け物に私たち雑魚は手が出ません。できることは一つ」
皐は目をかっと開き、身を低くする。
「逃げるのみ!!!」
自前の素早さで逃げた。走るのと変わらない高さで飛び、木々を上手く避けてその場から消えて行った。
「空はやめた方がいいですよー!ハエと思われてぺろりです!」
皐の言い残した忠告が既に遠い。耳の良い風沙梨がかろうじて聞こえるくらいだった。呆気に取られていた風沙梨だが、我に返って皐の逃げた方へ走り出す。
「エリシアさん!行きましょう!」
「どこに?」
「どこって、とにかく逃げるんですよ!!」
エリシアは立ち止まったまま不思議そうに首を傾げる。巨大ガエルの目はエリシアをロックオンしており、無防備な少女を食らおうと狩りモードになっている。
「エリシアさん!!!逃げて!!!!!」
風沙梨の叫びと共に、巨大ガエルの口から高速で舌が発射された。
エリシアは危険を察したのか、少し横にステップを踏むようにして振り返った。エリシアのすぐ隣でカエルの舌が空振り、口の中へ引っ込められる。危なかったと風沙梨は胸を撫でおろすが、脅威が去ったわけではない。エリシアを連れて逃げようとするが、龍の少女は興味深げにカエルを眺めて動こうとしない。
「風沙梨はあの石がほしいんでしょ?体から引っこ抜けるのかしら?」
「もう妖鉱石はいいです!早く逃げ――」
風沙梨が言い終わる前に、エリシアが大きく息を吸う。そして巨大ガエルを丸々飲み込むくらいの炎のブレスを吐く。カエルの姿がブレスで全く見えなくなる。風沙梨があんぐりと口を開けている間、エリシアは息が続く限り炎を吐き続けた。数十秒後、エリシアはブレスを止めて吐き出した分の息を吸った。少し得意げな表情をして見せる。
ブレスはカエルを通り越した森まで焼き尽くしていた。雨で湿っていた木ですら灰に変え、低木や地面の落ち葉が炎を上げて燃えている。
そんな中カエルはというと、火傷をした様子もなく、驚いて引っ込めていた目玉を開いてエリシアを見下ろしている。
「すっごーい、魔物のくせに私のブレスが効かないなんて」
エリシアは危機感のない声で感心している。カエルは完全にエリシアを敵と見なし、ずしりと前足を踏み出す。対するエリシアもやる気に満ちた笑顔で攻撃に備えて身構える。
どうして戦うことになっているのだと風沙梨は内心で嘆き、低木の影に身を潜める。一人で逃げるのも良心が痛み、自分の力ではやる気のエリシアを止めることもできない。仕方なく安全圏からサポートするという、いつも鈴葉にしている役割をすることにした。
睨み合いが続く中、風沙梨はカエルを観察する。エリシアの炎が効かなかったのはどうしてだ。シールドを張ったり、防御術を使った様子はなかった。属性で軽減したのだろうか。エリシアの炎属性に優位な水属性。水の妖鉱石を背中に生やしていることから、カエルが水属性であることは予想がつくが、相当の威力があるエリシアの攻撃を無傷でやり過ごせるほど、属性の有利不利は明確なものではない。であれば特殊能力だろうか。
カエルがまた一歩エリシアに近づく。その時、カエルの周囲で燃える炎の光が反射し、カエルの体がぬらりと光った。粘膜。よく見ると全身がかなり粘度の高い粘液で覆われている。どろりと体を伝い落ちるくらい分厚く生成されており、あれが炎から身を守ったのだろう。
「エリシアさん!カエルの粘液が炎を妨害しています!」
風沙梨はカエルに気づかれないように、音を操る能力を使ってエリシアの耳元に声を送った。エリシアがびくりと辺りを見回し、気持ち悪そうに耳を撫でている。
「遠くからサポートしますので慣れてください!」
「わ、分かったわ。粘液ね!それが干からびるまで燃やし尽くせばいいってことよね!」
「脳筋な……。森への被害は最小限でお願いしますよ……」
エリシアは再びブレスを吐く。今度はブレスの範囲を絞り、頭だけを狙う。一点集中で粘液を乾かせてダメージを与えようとしている。カエルは鬱陶しそうに頭を振り、巨体からは信じられない程の軽々とした跳躍をする。エリシアがぎゃっと叫んで素早く後ろへ逃げる。ずしんと大地を揺らしてカエルが着地し、ぬかるんだ泥と水を周囲にまき散らす。踏みつぶされるのを回避したエリシアだが、泥水を頭からかぶってしまった。
気さくな性格だがエリシアは王族。まずいと風沙梨は肝を冷やしてエリシアを見るが、本人は目をキラキラさせていた。
「あっははーーー!泥遊びみたいで楽しい!こういうのやってみたかったのよねー!風沙梨!後でカエルごっこしましょ!」
「い、嫌です……。それより、集中してください」
エリシアの攻撃から逃れたせいか、カエルの頭は雨と再び分泌された粘液で潤っている。徐々に雨も強くなっていて、カエルが戦いやすい環境になっていく。
カエルの背中の妖鉱石が光を放つ。カエルの周囲にいくつもの水の塊が生成される。そこからエリシアに向かって高速で水が噴射される。エリシアは木々の間を縫うように飛んで回避する。発射された水は木の幹をへし折り、岩を砕き、全ての遮蔽物をなぎ倒してエリシアを追いかける。エリシアを捕らえようと、カエル自身の舌も飛んでくる。
「エリシアさんこっち来ないでください!!私も巻き込まれます!」
「そんなこと言ったって、結構避けるの大変、きゃっ」
エリシアは鼻先ギリギリで水鉄砲を回避する。
「カエルの聴覚を惑わせますので、なんとか隙を突いて方向転換してください!」
風沙梨はカエルに妖力を向ける。木が倒れる音、エリシアの羽ばたく音、雨の音などを集め、カエルの周辺で大音量に変える。急に周りで爆音がし、カエルは新手の敵かと周囲をキョロキョロと警戒する。正確な聴力を失い、エリシアの気配も見失ったカエルは攻撃を止める。
「助かったわ」
「今のうちに逃げましょう」
「嫌よ、倒すの!逃げるなんてカッコ悪いでしょ!」
「攻撃が効かないのにどうやって倒すんですか!無理です、撤退も立派な作戦ですよ!」
「いーやー!!!」
エリシアが腕をぶんぶん振り回して駄々を捏ねる。なんだこの子供はと風沙梨が呆気に取られていると、カエルが暴れ回るエリシアを視界に捕らえた。反射的に舌が発射され、騒いでいたエリシアは気づかずに捕まってしまった。
「あ」
「え、エリシアさん!!!!!」
抵抗する間もなく、エリシアはカエルの口の中に消えて行った。
風沙梨は今起きたことが信じられず、身動きができなかった。巨大ガエルを凝視したまま、頭が真っ白になる。
カエルの攻撃も収まり、強い雨が降りしきる音だけがする。賑やかだったエリシアの声が聞こえない。喪失感で胸が苦しくなり、徐々に風沙梨に現実を突きつける。風沙梨は足元がぬかるんでいるのも気にせず、ぺたんと力なく座り込む。鬱陶しかった暑さも感じなくなり、雨の音がやたらと大きく聞こえた。
グォっとカエルが短い鳴き声を上げる。風沙梨の注意がカエルに戻される。エリシアはあの中に……。
『きもちわるーい!!!』
くぐもったエリシアの声。直後、カエルが炎を吹く。天に向かって口を開け、龍のような巨大な火柱が上がる。その開いた口から、ひょいとエリシアが飛び出してきた。唾液や胃液のようなねとねとしたもので濡れている以外、特に外傷はなさそうだ。
「エリシアさん!よかった!!!」
風沙梨がぱっと立ち上がって大声で呼びかける。エリシアは地面を蹴って宙返りしながらカエルの下顎に蹴りを入れ、怯ませてから風沙梨の方へ飛んで来た。
「風沙梨!これ臭い!気持ち悪い!お風呂行こ!!!」
「もう……無事そうで何よりですけど、もうちょっと状況見てください」
風沙梨は安堵と呆れで苦笑いしながら、エリシアの後ろを指さす。カエルは炎で焼かれ、強烈な蹴りを食らいで怒っているようだ。エネルギーを集中させているのか、背中から生えたいくつもの妖鉱石が眩しく光り出す。雨が滝のように激しくなり、カエルの体が薄っすらと光る。そして二人を睨んで水弾を準備し始める。
「治癒術ですね。雨や水に触れている間、あのカエルは再生力が増すようです。雨のせいで攻撃も威力が上がってそうです」
風沙梨が冷静に相手を分析する。エリシアが飲み込まれた衝撃が大きすぎて、カエルへの恐怖が薄まっていた。とはいえ、カエルの脅威は増している。慌てふためかずにいられるようになったが、自分では攻撃を防げないし、回避するのも運がよければといったところだ。聴覚を惑わせて逃げる、同じ手が通用するだろうか。
「とりあえず私が引き付けるわ!接近出来たら殴ったり蹴ったりしてみる!」
エリシアはカエルの気を引くために炎を吐きながら風沙梨から離れる。カエルの視線はエリシアを追いかける。しかし、すぐに風沙梨の方へ戻された。認識されてぎょっとする風沙梨。エリシアもすぐに気づいて、風沙梨を助けようと方向転換する。
動く獲物を狙うカエルだが、相手は魔物。かなり強力な個体だと皐も言っていた。知恵を持つ魔物が、簡単に捕まえられる獲物を見逃すわけがない。
風沙梨は咄嗟に音で相手の意識を逸らそうとする。カエルの背後で騒音を鳴らす。しかしカエルは騙されない。聴覚に干渉しようとしても、風沙梨の妖力を覚えられたのか、抵抗されて能力が効かない。カエルはちらりとエリシアの位置を確認すると、エリシアと風沙梨両方へ向かって水弾を発射した。エリシアの方には牽制として乱雑に大量の水弾を。風沙梨の方には、仕留めるために精度とスピードを重視した一発を。
水弾が発射されたと風沙梨が思った次の瞬間、それは目の前まで迫っていた。避けれない。エリシアの助けも間に合わない。目を閉じる時間さえなかった。
バシャッ!!!!!
風沙梨の目の前で水弾が弾けた。そしてピシッと視界がヒビで埋め尽くされる。身体に痛みはない。弾けた水がかかることもなかった。シールドが張られていたのだ。
「危なかったわね」
落ち着いた女性の声。わけがわからないまま風沙梨が振り返ると、森の奥から長く白い髪の人物が飛んできていた。紺色のワンピースにつばのない帽子、背には白い翼が生えている。雨に濡れた様子のない髪と猫の尾をなびかせ、風沙梨の隣へ彼女が到着した。すぐに翼は光となって消えた。
「あ、亜静さん……」
カエルの魔物を探していたという猫の魔物、飛翔亜静(ひしょう あしず)。亜静の後から先程逃げ出した皐もひょっこりと現れた。二人とも雨に濡れていないのは、皐の術によるものだろう。
「ちょっと、どうして逃げなかったんですか?私ちゃんと忠告しましたよ?」
風沙梨は騒がしい朱燕を無視する。
「亜静さん、ありがとうございました。死にかけました……」
「間に合ってよかったわ。あいつを見つけてくれた礼はこれでいいかしら」
「十分すぎますよ」
亜静は余裕そうな声で話す。それでも金色の瞳はカエルを捕らえ、威圧するように睨みつけていた。カエルは亜静を格上と見たのか、警戒して数歩下がる。
「風沙梨~!よかった!!!」
エリシアが風沙梨に飛びついて来る。
「うっ、エリシアさん、臭い……」
「誰に向かって臭いですって!文句あるなら風呂に入れなさい!」
口では怒ってみせるエリシアだが、風沙梨の無事を喜んで抱き着いたまま飛び跳ねている。亜静という強者が現れたこともあり、風沙梨は緊張が解けて足の力が抜けてしまった。エリシアにもたれかかってしまったが、しっかり支えてくれた。
「で、あの魔物は何なのですか?相当狂暴そうですけど、こんなのこの辺で見たことありませんよ」
皐が亜静に尋ねる。風沙梨も同じ疑問を持っていた。狂暴な魔物がいれば噂になるくらい、野老屋の森は平和な場所のはずだ。
「詳細は分からないけど、多分私のいたところにいるやつよ。私も元は獣型の魔物だったのだけれど、当時のことはあまり覚えてなくてね。でも、野老屋の森や虹の森とは桁違いの魔物がわんさかいたことは覚えてる。だから持ち帰って調べてみたいのよね」
亜静が話しながら、動きかけたカエルを脅すように闇魔法を放つ。黒いエネルギーのレーザーがカエルの進もうとした先の地面を消し飛ばす。
「あのカエルの特徴を教えてくれる?」
亜静に言われ、風沙梨はしっかりしろと己を奮い立たせ、エリシアの支えなしで立つ。まだ戦闘は終わっていないのだ。カエルを視界に入れ、今までのことを思い返す。
「属性は見た目のまま水です。水弾を発射したり、雨で回復力を強化できるみたいです。巨体ながらもかなりの跳躍力を持っています。舌の攻撃が特に素早いです。体から分泌されている粘液が厚く、エリシアさんの炎が効きませんでした」
「なるほど」
亜静は少し考えて唸る。そしてポケットから何か液体の入った試験管を取り出して溜息を吐く。
「爆薬はあまり効果なさそうね」
「森に被害を出すのはやめてください」
「手っ取り早い方が助かるのだけど、残念」
風沙梨は正気を疑うような目で爆発実験大好きな魔猫を見る。亜静は全く気にしていない様子で、面倒くさそうに自分の髪を撫でた。
「まあ、私に考えがあるわ。ちょうどいいエサもいることだし」
亜静はにやりと笑みを浮かべる。その瞳の先には、エリシアからカエルの体内の話を聞いてはしゃいでいる皐がいた。
何となく嫌な予感がした風沙梨に、亜静は作戦を耳打ちする。その予感は的中し、本当に大丈夫かと風沙梨は首をひねる。大まかな内容は、爆薬を持った皐を囮にしてカエルに飲み込ませ、皐を脱出させてから体内で爆発させるというものだった。
「龍の子からあんなに熱心にカエルのこと聞いてるし、飲み込まれたいみたいで助かるわ」
「何というポジティブ解釈」
「皐にはもちろんこの作戦は教えない。あなたの能力で、私の指示を伝えてほしい。龍の子には援護をしてほしいけれど……この雨だと炎はあまり効果的ではないかしら」
「いえ、エリシアさんの炎なら雨程度で弱まらないと思います。カエルの気を引くくらいならできると思いますよ」
亜静はなるほどと少し考え、作戦がまとまったのか、よしと頷く。
「それじゃ、早速始めましょう」
作戦開始の言葉に、風沙梨はごくりと唾を飲み込む。あらかじめ展開を決めていても、状況によって臨機応変な対応が求められるのが戦闘。行動するよりも考え込む癖のある風沙梨が苦手とすることだ。しかし今回は亜静という指揮官がいる。きっと大丈夫だと心で唱え、己を奮い立たせる。
亜静は先ほどポケットから取り出した試験管を指でくるりと回す。
「皐、これを!」
青い液体が入った試験管、爆薬を皐に向かって放り投げる。呼ばれて顔を上げた皐が宙を舞う爆薬を見て驚き、慌てて両手でキャッチする。
「落としたらどうするんですか!」
「素早いあんたなら受け取れるでしょ。それより、皐にしかできないことを頼みたいのだけれど」
「私にしか?」
「ええ。その爆薬は超強力なのだけれど、一定量以上を相手に直接かけないといけないの。これがあればあのカエルを仕留められるわ。そこで、ここで一番素早く動ける皐に頼みたいのよ」
その後も亜静があれやこれやと皐を説得するために説明を続ける。全て嘘だ、あれはいつも亜静が持ち歩いてる普通の爆薬だ。事前に皐を騙すと聞いていた風沙梨は、口が達者だなあと半分呆れて二人を見守る。皐はおだてられて、だんだんやる気の表情になっていく。
「し、仕方ありませんね。亜静さんがそこまで言うなら頼まれてあげなくもないですよ。その代わり、後で魔物のことたくさん教えてもらいますよ」
「さすが真実を追い求める情報屋ね、さあ、お願い」
「お任せください!」
二人が話し合っている間に、亜静に怯んでいたカエルも立ち直っていた。皐が高速で空へ飛びあがると、カエルの目が獲物を察知してギョロリと後を追う。
「エリシアさん!ブレスで皐さんをサポートする、フリをしてください!」
エリシアの耳元に能力で声を届ける風沙梨。皐に聞かれないよう、不審に思われない行動を全員でとる。
「わかったわ!って、フリ?どうして??」
「ま、まあ、とりあえず適当に火吹いていてくださ……あ、そ、そう!あの爆薬引火すると大変みたいなので、カエルの気を引く程度に、ですって」
「は、はあ……」
エリシアは怪訝そうに首を傾げるが、亜静が何度も頷いて助長するので、分かったとカエルの方を向く。
皐はカエルの舌が届かない高さまで飛び、上空からどうやって接近しようか様子を伺っている。そして地上ではエリシアが適当に炎を吐く。
「皐さん!エリシアさんがカエルの気を逸らしているうちに爆薬を!」
「おお、風沙梨さんですか、びっくりした。了解です!この下異原皐にお任せあれ!」
調子に乗っている皐は、エリシアや風沙梨のサポートがあるなら大丈夫だと、カエルに向かって降下していく。
相手のカエルは上位魔物。動き回るエリシアを無視して、簡単に捕まえられる風沙梨を狙う判断ができる存在。カエルは適当に攻撃しているエリシアに気を取られるはずもなく、こちらへ向かってくる愚かな朱燕を真っ直ぐ狙い定めていた。舌が伸ばされ、水弾が発射される。
雑魚と言われる朱燕の皐だが、戦闘力はなくとも素早さだけは評価されている。体を傾かせたり回転して間一髪で攻撃をかわしながら、猛スピードで接近する。そしてカエルの背後に回ると、試験管の栓を開けて爆薬をカエルに注ぐ。
つもりだった。
「あ、あれ」
皐は顔を真っ赤にして栓を抜こうとするが、栓は試験管にぴったり蓋をして動かない。皐が苦戦している間にカエルは体の向きを変え、空中で静止している朱燕に舌を巻き付けた。
「やったわ!」
「う、上手くいきましたね……」
「ぎゃあああ!!!亜静さん助けて!!!って、何ガッツポーズしてるんですかああああああああああ」
皐は悲鳴を上げながらカエルの体内に取り込まれていった。何も知らされていないエリシアはカエルと風沙梨たちを交互に見て混乱している。
「さあ、頼むわよ」
「はいっ!」
第一段階の爆薬を飲み込ませることは成功。次は皐だけを吐き出させる。そのためにエリシアには作戦を伝えなかったのだ。風沙梨は膝から崩れ落ちる渾身の演技を披露し、うな垂れてエリシアに能力で話しかける。
「エリシアさん……皐さんが……。私たちの大切な友人が食べられてしまいました……。彼女の力では自力で脱出はできないでしょう。もう、皐さんは……」
両手で顔を覆い、嗚咽交じりに言う。演技をする。
「風沙梨……」
エリシアは気まずそうに、風沙梨を慰めようと数歩近づく。まだだ。これでは足りないと風沙梨は頭をフル回転させる。
「皐さんは、師匠とも仲がいいんです……きっと師匠もとても悲しみます。ううっ、皐さん、師匠」
どうして人を騙すために全力で演技をし、鈴葉の名前まで出しているのだろうと虚無になる風沙梨。しかし、鈴葉の名前でエリシアの表情が変わった。
「鈴葉の友達……!鈴葉を悲しませるなんて、許せないっ!」
一気にエリシアの怒りが最高潮に達する。抑えきれない妖力がエリシアの口から炎となって溢れ出る。彼女の能力、感情を炎に変える能力。怒りや恐怖など、強い感情がそのまま炎の威力を底上げするものだ。風沙梨がさらっと亜静にエリシアの能力を伝えると、それを利用しようとエリシアを怒らせる流れになったのだ。鈴葉大好きエリシアはカエルを鋭い瞳で睨み、龍のような低い唸り声をあげている。遊びでカエルと戦っていた時とは別人のようだ。
「皐さんを助けるには、カエルの口を長時間開けさせる必要があります」
「簡単よ!舌を捕まえて燃やして引っこ抜いてやるわ!」
エリシアは翼を広げてカエルの前まで飛び、顔面に炎を吹きつける。少し前の戦闘よりも段違いに威力が増した炎。カエルの粘液で防がれて大したダメージにはならないが、熱さを感じたのかカエルが少したじろぐ。炎を嫌って、水を集めた壁を顔の前に作り出す。
エリシアが戦っている間に、風沙梨も別の準備を始める。
「皐さん、聞こえますか」
「こ、これは!?風沙梨さん?」
「能力で話しかけてます。今、エリシアさんがカエルと戦闘しています。カエルが大きく口を開けた時に私が合図しますので、その時に皐さんは体内から脱出してください」
「めちゃくちゃな指示ですね……生き延びるためには何だってやってやりますよ」
「あ、亜静さんの爆薬はそこに置いてきてくださいね」
カエルの体内にいる皐に連絡をし、風沙梨は亜静にグッと親指を立ててみせる。亜静も了解と頷いて返す。
「それにしても、厄介ですね。雨のせいでカエルにダメージを与えても、すぐに回復されています。エリシアさん、カエルに大ダメージを与えられるでしょうか」
「何とかしてくれるでしょう。ドラゴンだし」
エリシアに謎の信頼を持つ亜静。確かに龍種は強力な力を持つ者が多く、エリシアも実力者ではあるが、風沙梨には相性が悪いように見える。同じ実力者の亜静には何か分かるのだろうか。
「ん……?」
風沙梨は考えていたことをもう一度思い返す。実力者の亜静……。そうだ、亜静もかなりの実力の持ち主である。カエルが亜静を見て怯む程だったではないか。
「あの、亜静さんも加勢すればいいのでは?皐さん犠牲にしなくてもいけたのでは……?」
「まあ、私とあのドラゴンっ子なら皐なしで倒せると思うわ」
「だったら――」
「これは私の都合だけど、ちょっとタイミングが悪くてね。満月が近いから、あまり暴れたくないのよ」
亜静は月の魔力に大きく影響を受ける種族であり、満月の日は凶暴気味になるらしい。戦闘で暴れて自身の力が制御不能になる危険もあるため、大人しくしていたいということだろう。仕方ないかと風沙梨は納得する。
「いざとなったら加勢するわ」
「分かりました」
亜静がボソリと、汚れたくないしと言ったことには目を瞑った。
会話をしている一方、エリシアはカエルとの攻防を続けていた。炎と水と、両者遠距離攻撃で相手を牽制し合っている。エリシアはカエルが舌を伸ばしてくるのを待っているが、また体内で火を吐かれたら堪らないと、カエルはエリシアを飲み込もうとはしない。
「むかつく!」
思い通りに行かない状況がさらにエリシアを苛立たせる。炎の温度が上がる。
「猫の人!」
「はい?」
急にエリシアに呼ばれて、亜静はきょとんとする。
「さっき風沙梨に張ってたシールド、私にもお願いできる?少し時間稼ぎしてほしいわ」
「それくらいなら、まあ」
亜静はエリシアに手をかざすと、彼女の正面に見えないシールドを張る。時間稼ぎのため、五枚程のシールドを重ねて強度を増させる。
エリシアはありがとうと早口に言うと、大きく息を吸い込んだ。そして口から炎を吐き出すのだか、射出せずに口元で溜めて火球を生成し始める。カエルが消化しようと水を放出してくるが、亜静のシールドがそれを受け止める。
火球はエリシアの体よりも大きくなり、カエルと同じくらい巨大な塊になった。何度もカエルの攻撃を受け止め、最後のシールドにひびが入る。そしてシールドが割れると同時に、エリシアは火球を発射した。小さな太陽の進むスピードはそれほど速くないが、雨もカエルの攻撃も蒸発させ、標的を飲み込まんと一直線に進んで行く。
カエルもこれには防御のシールドを展開する。水を纏わせた壁を自身の周りにドーム状に張り、大技を防ごうと――せめて威力を軽減させて粘液で防げる程度にしようとする。
「させないわ!」
エリシアは翼を羽ばたかせ、火球よりも先にシールドまで辿り着く。両手足に妖力を纏い、殴る蹴るとシールドにダメージを与えていく。しかし水のシールドは激しい雨のせいで耐久度が増し、簡単に壊れない。火球が迫る。
「カエル程度に、龍が負けてたまるか!」
エリシアは両手を大きく広げる。同時にシールドの左右に巨大な龍の牙のようなエネルギー体が現れる。
「いっけえーーーーーーーーー!」
エリシアはさらに口からブレスを吐き、シールド全体に炎を行き渡らせる。意志を持ったようにシールドを覆い尽くした炎は水を蒸発させる。そしてエリシアが両手を伸ばしたまま正面で合わせると、エネルギーの牙も合わせて動き、シールドを左右から挟み込む。炎で焼かれ、回復力も失ったシールドはすぐにひびが入り、巨大な龍の顎に噛み砕かれた。エリシアが高くに飛び上がると、先程までエリシアがいた場所を火球が通り抜けて行った。
カエルを守るものは自前の粘液のみ。しかし、シールドで威力を殺せなかった火球はカエルの粘液から水分を奪い、カエルの皮膚を焦がす。火球がカエルに衝突し、カエルは爆炎に包み込まれた。追い打ちにエリシアが急降下してカエルの頭を思いきり蹴りつける。粘液を失い、焼かれた皮膚に攻撃を受けたカエルは大きく口を開けて悲鳴を上げる。
「皐さん!今です!!」
風沙梨が能力で皐に呼びかける。カエルの口の中から渦巻く風が吹き出し、中から皐が飛び出してきた。
「せ、生還!って、あっつ!!!」
胃液塗れの皐。カエルを焼き尽くす炎に驚いて、急いで風沙梨と亜静の方へやってくる。
「皐さん臭い……近づかないでください」
「ひどい!エリシアさんとはハグしてたくせに!」
「あの時のエリシアさんも臭かったです」
なんだかんだ言いながら、風沙梨も皐の無事を喜んだ。その隣で亜静が一歩前に進み出る。
「さあ、やるわよ」
亜静がぱちんと指を鳴らす。少ししてカエルの方からボムッとくぐもった音がした。カエルが苦し気にもがき、口の中から黒煙が上がる。
「まさか、爆薬?」
「ええ。あの試験管、私が合図すれば栓が開いて爆発するようになってるのよ」
「……私のこと囮にしました?」
皐が亜静の肩を掴んで揺らすが、亜静は爆薬の仕組みを自慢げに語るだけだった。
そんな二人を見て風沙梨はふふっと笑う。なんとかカエルを倒せた。安心と達成感で、ただただ心が軽くなった。
「みなさん、お疲れ様です。やりましたね」
風沙梨がそう言い、皐と亜静もじゃれ合いながら頷く。
ただ一人、エリシアだけが空中から黙って焼けるカエルを見つめていた。息を切らしているがその瞳は鋭いままで、いつでもブレスが吐けるようにと喉奥に炎を揺らめかせている。まだ怒っているのだろうかと、風沙梨は心配して声をかける。
「エリシアさん、皐さんは無事ですよ?もう大丈夫です」
「何言ってるの、まだよ。こいつ、まだ生きているわ。回復してる」
まさかと風沙梨はカエルの方を向く。体表は黒く焦げ、大火傷を負っている。腹ばいに地に伏していて、反撃してきそうな様子はない。
「地面よ」
エリシアが地上を指差す。周辺の大地を浸していた雨水が、カエルの足元に集まっている。そして激しく降っていた雨は小雨になり、すぐに止んでしまった。カエルの周り以外では。
「ど、どうなってるんですか……!?天候が……」
「きっとあの妖鉱石ね」
戸惑う風沙梨に、次は亜静が説明する。
「カエルの背中の妖鉱石の仕業よ。雨を降らせて、いえ、集めて回復しようとしてるのね」
カエルの背から棘のように生えている、いくつもの水の妖鉱石。それらは力を発動して青く輝いている。
「ですが、最初より小さくなってますね。半分くらい縮んでいるんじゃないですか?」
皐に言われ、風沙梨も確かにと頷く。カエルの異常な耐久力は、妖鉱石のエネルギーによるものだったのだろう。
「ちょっと見くびってたわね」
「どうする?今が仕留めるチャンスだけど、私しばらく炎吐けないわ」
エリシアがけほっと口から煙を吐き出し、亜静に何とかしてくれと訴える。風沙梨と皐がエリシア以上にダメージを出すこともできない。もう亜静しかいないのだ。
三人の視線が集まる中、亜静は迷ったように目を泳がせ、うーんと少し考える。そしてはっと何か閃いたのか、右手に巨大な闇属性の槍を作り出した。
「皐、武器よ」
「私ですか!?無理無理無理!!」
「龍の子にも手伝ってもらえばいいわ」
亜静は首を横に振る皐に、ひょいと槍を投げた。無理矢理キャッチさせられた皐は、エリシアに槍を押し付けようとするが、エリシアはどうすればいいんだと疲れた顔でため息をつく。
「皐の能力で槍の威力、皐と龍の子の飛行速度、あと風沙梨の能力も強化して」
「そんなにいっぱい強化に妖力を使ったら、私飛ぶ力無くなっちゃいますよー」
「じゃあ飛行速度は龍の子にだけでいいわ」
皐は槍をエリシアに渡し、ほっと胸を撫で下ろす。そして巻物を広げ、筆先を妖力のインクで満たす。
「一体どうするつもりですか?」
皐が巻物に筆を走らせながら、亜静に作戦内容を尋ねる。
「簡単よ。風沙梨が音でカエルの気を逸らして、龍の子が槍をカエルに突き刺す。あんたの方が素早いから槍を渡したけど、あの子でも大丈夫でしょう。パワーもありそうだし」
「任せて!それくらいならできるわ!」
エリシアが身長より大きい槍をブンブン振り回して軽々と宙に浮く。
皐は言われた通り槍とエリシアに強化の術をかけ、風沙梨にも術を施そうと体の向きを変える。少し額に汗が滲んでいる。
「それじゃ、風沙梨さんにもかけますよー」
「ま、待ってください!」
風沙梨は両手を突き出して皐を制止する。どうしたのかと三人が目をぱちくりさせる。
「私の能力はもうカエルには効きません。妖力を覚えられているので不意打ちもできませんし、惑わすのも抵抗されてします。私にはエリシアさんのサポートはできません」
無力な自分が悔しい。だが、もうカエルにどんな手も通用しないのは実証済みだ。
「大丈夫よ。皐の強化もあるし、カエルも弱って余裕がなくなっている。あなたの能力なんて忘れてる頃でしょう。もう少し自分の力に自信を持ちなさいな」
「そうですよ!ほーら、力が湧いてくるでしょう?」
亜静と皐に言われた風沙梨は、でもとぼそぼそ弱音を吐く。皐の強化で力が増強されたのは感じる。それでも、もし自分のせいでエリシアが危険にさらされると思うと耐えられない。カエルにエリシアが飲み込まれた時の虚無感や、自身が殺されそうになった場面が、トラウマとなって脳裏に焼きついている。とことん戦闘に向かないメンタルをしているなと、自分のことながら呆れる。
「風沙梨!あんたなら大丈夫よ!いつも鈴葉のサポートしてるんでしょ!任せたわよ!!」
エリシアはそう言って空高くへ飛び上がる。雨が止んだ空には、雲間から久しぶりに太陽の光が覗いていた。
亜静が風沙梨の隣に来る。
「この野老屋の森はあなたの味方でしょ?森の力を信じなさい、木霊さん」
「森……」
野老屋の森から生み出された木霊の風沙梨。森の声を聞き、森の力を与えられて森を守護する存在。この魔物は野老屋の森にいるべきではない相手だ。軽く森が荒らされていた程度だが、こんなにも凶暴な魔物を野放しにしていれば大きな被害が出るかもしれない。
自分が森を守らなければ。一人ではできないから、仲間の力を頼って。
「皐さんの強化で、変に自惚れちゃうそうです。ええ、やりますよ!」
風沙梨は妖力を集中させ始めた。
カエルは雨を集中させて少し動けるようになったのか、上を向いて雨をガブガブと飲んでいる。爆破させられた体内を癒すためだ。その目は空飛ぶエリシアを捉えている。
カエルの背中の妖鉱石がさらに光を強くする。カエルの周りに無数の水弾が生成されると同時に、妖鉱石の一つが砕け散った。カエルは妖鉱石を使わないと攻撃術も打てないほど弱っている。
エリシアは素早く飛んでカエルの水弾をかわしていく。飛行速度の強化のおかげで、余裕ですいすいと攻撃を避けられている。
カエルはさらに妖鉱石を消費して、自身の周りに水の壁を作る。シールドではないただの水だが、その自らは妖力を感じる。触れれば体力を奪われるとエリシアは直感で察知する。
「風沙梨!お願い!」
「はい!」
風沙梨は大きく息を吸い込むと、ありったけの妖力を乗せた大声を出した。亜静と皐が耳を塞ぐ。
声を増強、集中させ、ブレスのように直線上へ発射する。音波は空気をガンガン振動させ、水の壁にぶつかる。水の壁に穴が空き、エリシアがそこに飛び込む。
「皐さん!私にさらに強化を!」
「いや、もう妖力切れで……あれ?」
皐は断ろうとし、不思議そうに右手の筆を見つめる。
「回復してる……?」
皐ははっと自身の足元を見る。地中からツタ植物が一本伸び、皐の足首に巻きついている。風沙梨の治癒術、森の力を借りたものだ。
「『風沙梨さんの妖力を大幅に強化』」
皐はにししと笑い、巻物にそう記す。風沙梨は再び強い力が湧き出すのを感じる。
水の壁を突破されたカエルは、背中の妖鉱石全てを砕き、力を全て水弾に変える。
「エリシアさん!行ってください!」
風沙梨はそう叫ぶと、もう一度声を振り絞る。今度は亜静と皐は何も反応しない。そしてエリシアの翼の音、カエルに降り注ぐ雨音、周辺の音を全て集める。
一瞬の無音。奪われた音はカエルにだけ聞こえる爆音となった。鼓膜が破壊され、脳が振動する。防御を捨てているカエルは風沙梨の能力に抵抗する隙もなく、意識外からの攻撃がクリティカルヒットした。混乱で制御を失った水弾が、ただの水となって地面に落ちる。
そしてエリシアが豪速でカエルの後頭部に槍を突き立てた。槍はエリシアの速度と怪力により、先端だけでなく根元までカエルの体内に埋まる。
「行くわよ!」
エリシアがカエルから離れると、亜静が指をパチンと鳴らした。カエルに刺さった槍が爆発し、カエルの体内に甚大なダメージを与えた。
カエルは動かなくなり、空の雨雲が消えて行った。
――――――
「それで妖鉱石は全部消えちゃったんだ、残念だったねぇ」
青い着物の獣天狗、師匠こと紅河鈴葉がせんべいを齧りながら言う。あの日から二日後、鈴葉が山から帰ってきたのだ。風沙梨の家にて、ちゃぶ台を囲んで妖鉱石から始まった事件の話をしていた。
「でも、怪我人も森への大きな影響もなくてよかったね!」
「でしょ!私頑張ったのよ!褒めて褒めて」
話を聞き終えた鈴葉に、エリシアが横からぬっと現れる。はいはいとエリシアの頭を撫でる鈴葉と、にへらと表情を緩くするエリシア。鈴葉に会うまで帰らないと風沙梨の家に居座っていた彼女は、お目当ての鈴葉にずっとべったりしている。
そんな二人を眺めながら、風沙梨も新たなせんべいに手を伸ばす。思えば、妖鉱石を取りに少し外に出るだけのつもりが、一歩違えば死への道が開ける出来事だった。鈴葉がいない時にこういった危険に巻き込まれるのは珍しい。いつも危険を察知するとすぐに逃げるからだ。
今回もエリシアがいなければ、風沙梨も皐を追ってすぐに逃げていたところだった。危ない目にも遭ったが、結果的にあの場で退治できてよかったと思っている。亜静が到着する前に暴れられたり、村へ行ってしまう事態を防げたのだ。
「風沙梨もやればできるじゃん。また戦闘訓練する?」
「い、嫌です!ほんとたまたまなんですよ」
イタズラっぽく笑う鈴葉に、風沙梨は全力で首を横に振る。かつて鈴葉に戦闘を教わろうとしたことがあったが、自分向きではないとすぐにやめてしまった風沙梨。師匠呼びはその時のものだ。
「自分でも不思議です。皐さんの強化やエリシアさんのトドメがあったとはいえ、あの時は頭も冴えて、確実に相手をダウンさせる自信のようなものがあったんですよね」
「メンタルの問題だね」
突然現れた四人目の声。鈴葉の隣、エリシアとは反対側の空中に鏡が現れて、鏡面からひょっこりと少女が顔を出す。長い薄茶色の癖毛に紫の瞳、紺色と朱色の軍服のような服装。表情は胡散臭そうににまにま笑っている。エリシアをサルザンからエスシに連れてきた人物、異界送りだ。
風沙梨はあからさまに鬱陶しそうに口元を歪めて異界送りを横目で見る。
「何ですか。勝手に人の家に出現するなと――」
「木霊(風沙梨)は普段弱っちいけど」
異界送りは風沙梨の文句を無視して話始める。
「メンタル次第で弱くも強くもなれる旧型妖怪だ。朱燕(皐)の強化と森の力があればパワーアップできると思い込んで、それが自信、そして普段より自分の能力を引き出せたんだよ」
異界送りのすかした話し方は鼻につくが、言っていることには納得できた。
旧型妖怪とは、両親の性行為以外から生まれる妖怪のことだ。恨みつらみから生まれる悪霊、信仰から生まれる神、妖力によって人工的に生み出された存在などが対象になる。風沙梨も森によって生み出された旧型妖怪の木霊である。
旧型妖怪の特徴として、精神状態が強さに直結するというものがある。強い恨みを持つ者は強力な力を、臆病な性格の者は妖力も弱まってしまう。
「確かにそうかもしれません。役目というプレッシャーが良い方に働いたような」
「ま、普段は戦闘では頼りないへなちょこだけど。毎回それくらい頑張ればいいのに」
「うるさいですね。あなたも大したことないでしょう」
風沙梨と異界送りが互いに煽り合い、視線がぶつかって火花を散らす。
「二人ともまた言い合ってる。相変わらず仲良しだねぇ」
「「仲良くないです!!!」」
鈴葉のちゃちゃ入れに、風沙梨と異界送りが同時に返す。ほら~と鈴葉に笑われるのであった。
「ところで、そろそろエリシアさんを元の国に返してくださいよ。向こうで行方不明とか騒がれてたらどうするんですか」
「大丈夫だよ。女王様の側近に鈴葉さんのところに遊びに行くって言ったら、あっさり了承してもらえたから」
「そういうこと!もうちょっとだけ遊ばせてもらうわ!」
自分の話をされていることに気づいたエリシアが、ぐっと親指を立てて風沙梨にウインクする。そして鈴葉にお馬さんごっこをせがみ始めた。
「せっかくカエルの脅威から解放されて師匠とゆっくりしようと思ったのに、こうも騒がしいと少しも休めないですよ」
風沙梨は大きなため息をついて床に寝転ぶ。窓の外から入り込む眩しい木漏れ日の光に目を細めた。 あの日以来空は晴れており、カエルが空の雨を全てかき集めたおかげで、数日分の雨雲が消費されたらしい。まだ湿間は続くため、一時的な晴れ間かもしれないが、太陽に照らされた鮮やかな森を見ると落ち着く。
騒がしくも平和な空間で、風沙梨はうとうととまどろみに身を委ねた。
――――――
同日、虹の森の小屋にて。
「カエルの研究は終わった?」
明るく長い青色の髪の少女が椅子に座ったまま振り向く。頭に花冠を乗せた少女――虹の森で最も愛されている人物である神宮氷璃(じんぐう ひょうり)は、心配と好奇心の入り混じった表情をしている。
「まあ、ある程度は」
亜静は欠伸を嚙み殺して答える。カエルを倒した後、カエルを解体して研究のためいろいろ持ち帰っていた。食事も睡眠もとらずに、この小屋の地下室で調べ物に徹していたのだ。旧型妖怪である亜静には食事も睡眠もほとんど必要ないのだが、少し熱を入れ過ぎて疲れていた。
亜静は氷璃の向かい側の椅子に座る。氷璃がテーブルに置かれたポットを取り、コップにハーブティーを注いでくれる。しっかりと水の妖鉱石で冷やされている。コップを受け取り、数口喉に流し込んで長く息を吐きだす。
「で、どうだったの?」
「予想通り、虹の森の魔物じゃないわ。頭から手足の先まで、高濃度の魔力で満たされていた。普段から妖鉱石、もしかすると妖鉱結晶まで食べているかも。私の知る限り、この辺りで自然生成される妖鉱石では補えない量の魔力よ」
「妖鉱結晶って、特殊能力を宿した妖鉱石よね?人生で目にすることができたらラッキーってほど貴重っていう」
亜静は頷く。妖鉱石や他の魔物が持つ魔力を食い物にし、自分の魔力を高める。そんな存在が虹の森にいれば、大勢の被害者が出て問題になるはずだ。虹の森の顔とも言える氷璃に情報が集まるはずなのだ。
「私と同郷の魔物かも。おそらく、虹の森の東側、毒ガス地帯の向こう側よ」
毒ガス地帯。神であろうと幽霊であろうと、肉体も精神も魂までも蝕む有色の毒に覆われている場所。幻夢界には毒ガス地帯が多くあり、虹の森の東西はこの毒ガスに覆われている。毒ガスを少し吸い込むだけで、強力な妖怪ですら死んでしまう威力だ。
毒ガス地帯は期間や周期は不明だが、稀に薄れたり移動することがある。それにより分断されていた場所が繋がったり、近くの地域が毒ガスに飲み込まれることがある。
亜静はかつて獣型の魔物であり、カエルと同じように妖鉱石や倒した魔物から力を得ていた。人型になり、知能もつけた後、知見を広めるためにと旅をしていたのだが、気がつくと虹の森にいて、元居た森には帰れなくなっていた。おそらく虹の森東の毒ガス地帯が薄れた日に、偶然虹の森側へ来てしまったのだ。あのカエルも同じかもしれないと亜静は考えていた。
「記憶が曖昧なのだけれど、向こう側の森にはカエルみたいに強い魔物がごろごろといたような気がするの。血と魔力に飢えた恐ろしい奴らよ」
「そう……。でも、カエルと戦ってる時もそのことはなんとなく分かってたのよね?亜静にびびってたらしいし、わざわざあの子たちを危ない目に遭わせずとも、あなたが倒しちゃえばよかったじゃない。できたくせに」
氷璃の赤い瞳に見つめられる。少し悪戯っぽい言い方で見透かされたような気がし、亜静は耳を寝かせてハーブティーを一口飲む。
「満月前に暴れたくないから……」
「ちょっと昂るだけじゃないの。そこまでのリスクにならないし、万が一暴れそうになったらいつも通り私が何とかするわよ。分かってるでしょ?」
言い訳が通じず、亜静はむすっとして尻尾を横に振る。
亜静が自ら戦わず、風沙梨たちに指示だけしていたのは、満月だけが原因ではない。一人では苦戦しただろうが、エリシアもいれば容易に倒せたはずだった。
「その……。なんだかあのカエルを見ていると、魔物時代のことをいろいろ思い出しそうになったのよ。狂暴な思考とか、獣の本能的な部分が湧き上がってくる感じ。そんな状態で暴れたくなかったのよ。それと満月前ってのも重なって、ちょっと怖いでしょ?」
「なるほど、そういうことだったのね……」
亜静は月の魔力が高い日、特に月食の日に理性を失い、ただ魔力を求めて暴れてしまう特性がある。月の魔力が高まる満月に怯えるのも、特性による暴走状態に陥りたくないからである。さらに旧型妖怪の亜静は、興奮や月による昂りで精神が乱れ、狂暴になりやすい一面もある。
カエルとの接触は心情、特性、月の周期と、亜静にとって悪い状況が合わさってしまったのだ。最低限のサポート役に回り、風沙梨たちに戦わせたのはそのためだった。
「それは仕方ないわね。新型の私にはわかりにくい感覚だし、賢いあなたが取った行動だもの。きっと最善だったのよね。全員無事で解決したみたいでよかったわ」
氷璃はふふっと表情を緩める。亜静を強く信頼した言葉に嘘はない。亜静はむず痒くなってそっぽを向く。
「東の向こう側の森ね……。危険地帯ならこれ以上毒ガスが晴れないことを祈るけど、ちょっと気になるわね。どんな場所なのかしら」
氷璃の独り言に亜静の耳がぴくりと動き、逸らした顔をすぐに正面に戻した。
「カエルの体内に残ってた土や消化されなかった植物からいろいろ予測できるわ。聞きたい?」
「……難しそうだし長くなりそうだから遠慮するわ」
「知っておいて損はないわよ。まず向こうの環境だけど――」
「も~~~!聞かないってば!専門用語やめて!分かる言葉で話して!」
数時間に及ぶ亜静の魔物講座が始まり、氷璃は襲い来る眠気と戦うことになった。