「外が騒がしいと思ったら、野良妖怪が暴れてたんだね〜」
虹の森中央部の西側。緑神の住む生命の黄林近くで実鳴は呆れた笑いを浮かべる。
獣型から人型になったばかりだろうか。己の強さを見せしめたいと暴れている二匹の妖獣が実鳴を見つけ、なんだと牙を向く。
「馬鹿な君たちに警告だよ。ここは緑神様の住む土地の近く。あまり大きな騒音を立てると、緑神様の機嫌を損ねて森の養分にされちゃうよ?」
妖獣たちは小さな少女に見下すような言い方をされ、怒りに目を血走らせる。後悔させてやると唸り、挟み撃ちにするように二手に分かれて実鳴にじりじりと迫る。
「やっぱり雑魚は話が通じないねぇ。まったく、人が親切にしてやってるのにさ〜」
実鳴はどこからかリンゴを取り出すと一口かじり、右手に木の葉を構える。その葉に妖力を込めると、葉が黄緑に光り、実鳴の背後に気配が生まれる。
「こう見えても私は緑神様の式神。お前らの相手になる存在じゃないんだよ」
妖獣たちは唖然として後ずさる。小さな狸の少女の背後から、リンゴの木と龍が混じったような、巨大な怪物が姿を現した。
「ここにいたんだ、また人間界の魂食べてる」
堕天馬は呆れたように、そして愛おしそうに笑う。堕天使は捕食を中断し、顔を上げる。
「だってこいつら美味いもん」
「じゃあ仕方ないねー」
幻夢界だけでなく、人間界の魂もたどり着く場所、地獄。そこに棲みつく二人の堕落族。二人はよく見つけた魂を喰らっているのだが、特に堕天使は魂喰らいに夢中になっている。中でも人間界からの魂は特別なエネルギーを持っているようで、堕天使のお気に入りだ。
もちろん食われた魂は消滅し、二度と輪廻の環に加わることはない。
「あんまり食べすぎると、また閻魔にいちゃもんつけられるよ?」
「どーでも良いよ、あいつらなんて。なんならあいつらも食っちゃうし」
「閻魔とやり合うってこと?君が?」
堕天馬はにたりと笑う。
「良いねぇ。君の戦っている姿は世界で一番愛おしいからねえ、見たいなー、閻魔誘い出すか〜」
「まーた始まった」
堕天使に異常な愛着を持つ堕天馬の妄想に、堕天使はきもーいと笑い、また魂を貪る。
「でも閻魔に手を出すと、創造神が動くかもしれないからねぇ。手加減できるなら連れてくるけど?」
「半殺しくらいまでなら多分」
「オッケー。激おこにさせて連れてきてあげる。あぁ〜楽しみ、存分に殺し合え〜」
堕天馬は身体を霧状に変化させると、早速閻魔の元へ飛んでいった。堕天使はそれを見送り、おやつの続きだと、また魂を捕まえる。
堕落族にとって他者の命はただの食べ物であり、閻魔もその一つだ。食べ物に恐怖と痛みを与えて調理し、喰らう。まだ食べてはいけないと言われているため、下ごしらえだけになるが、持て余した時間を料理に使えるのは楽しい。堕天使は邪悪な笑みを浮かべて、堕天馬の帰りに心躍らせた。
野老屋の森の西、遥かなる海の海岸で、一人の妖怪が海に向かって祈りを捧げるように膝をついている。時刻は日付を越した頃で、妖怪は昼間からずっとここにいた。
長い間何も起こらず、海面は静かに波打っていたが、ついに変化が訪れた。一直線に切れ目が入ったように海水が分かれ、やがて海が真っ二つに割れた。不自然に割れた海の底を、一人の女性が歩いてくる。妖怪が待ち侘びていた人物だ。
彼女は会話ができるほどの距離まで歩いてきて、鋭い視線で妖怪を品定めするかのように観察する。
「お前が海神に会いたいという妖怪か?」
そうだと彼女、海神の式神、御蛇ノ刃に告げる。
「海神の加護を受けたいと聞いたが、あれがどういうものか知っているのか?」
海神の加護――無意識の加護は、加護を受けた者の本心を表に出すもの。本人すら自覚していない無意識の領域を解放し、『本当』の姿になれるものだ。
この妖怪は恋をしていた。しかし、相手に本音を伝えられず、長い間一人苦しく、もどかしい思いをしていた。相手に自身の本当の気持ちを伝えるべく、海神を頼ろうとしているのだ。
「はんっ、馬鹿馬鹿しい。その程度、自分でなんとかしろ」
刃は冷たい表情で言い放つ。妖怪が説得しようと口を開くが、先に刃が釘を刺した。
「海神の加護は呪いだ。大抵の妖怪共の意識の底など、自責他責、恐怖や嫉妬などの負の感情ばかりだ。自分で気持ちを伝えれない程度の好意が、それらを上回るわけないだろう。加護を受ければお前は負の感情に支配され、自我もなく暴れる化け物に成り果てる」
妖怪が言葉に詰まると、刃は背を向ける。
「海神に関わるな。真っ当に生きたいなら特にな。身を滅ぼすにしても他所でやれ」
そう言い残し、刃は月光を浴びて輝く刀を鞘に納める。割れていた海が元に戻り、何の変哲もない海岸が帰ってきた。妖怪はポツンと、月に照らされた海を見つめていた。
「ねえ、そこのあなた!」
誰も通らないような、道すらない山の斜面を歩いていたのだが、意外なことに頭上から声をかけられた。木の上からだ。見上げると、紫の着物の少女がこちらを見下ろしている。深い緑の瞳が好奇心で輝いている。
「こんなところで何してるの?」
「あなたこそ」
見たところ良いところの娘っぽい。そんな子が一人で獣道しかない場所に、そして木の上に座っている。
「ちょっと一人になりたくて逃げてきたの。良かったら話し相手になってくれない?」
少女は身軽な動きで木から降りてきた。長い黒髪がふわりと揺れる。話くらいなら、まあ良いか。
「あなたはどうしてそんなに空っぽなの?」
「え?」
少女の意外な質問に、ぽかんと口を開ける。何が空っぽ?
「『一体あなたに何があったの?』」
「わ、私は……」
気づけば涙を流しながら話していた。七百年前、堕落族との戦争で親のように思っていた天神を、部下であり最高の仲間だった大勢を、一人を除いて全員失ったこと。
「あの日からは、もう何もかもわからないのです。昨日何をしていたかも思い出せない。頭のどこかにずっと嫌な記憶があって、それを忘れるために何も考えないようにしないと、どうにかなってしまいそうで。こんなことなら――」
はっとして少女の顔を見つめる。
「あなたなら、私を『解放』してくれ、る?」
悲しそうな顔で私の話を聞いていた少女は、私の問いに対して優しく微笑んだ。
「できるけど、やめておくわ。あなたには、大切な残された一人がいるのでしょう?あなた自身も、その辛い記憶も、私がどうにかして良いものじゃない」
見た目からはかけ離れた大人びた声に、この少女がただ者ではないと確信する。つい感情的になっていろいろ話してしまったが、大丈夫だろうか。
「辛いことを思い出させてしまってごめんなさいね。『私と会ったこと、話したことは忘れて』」
何をしていたんだっけ?人がこなさそうな山中にいる。目の前には紫の着物の少女。誰?
「琥杜歌さん!こんなところで何を――」
呆れた声。せうだ。
「その子はって、り、リン様!?なぜこのような場所に!?」
「迷ったの。良ければ屋敷まで連れて行ってくれる?」
琥杜歌は全く状況が理解できず、先ほどよりは澄んだ青い瞳をぱちくりさせた。
『もしもーし。あれ?これ聞こえてるの?』
「オクリちゃん!良かった!聞こえた!」
鈴葉の左耳につけた風の妖鉱石の通信機から異界送りの声が届く。
『おー、良かった良かった。空神お手製の通信機でも、異世界まで行っちゃったら流石に音声乱れるんだねぇ。で、そっち――魔宮界はどうですか?』
「それがいろいろ変なんだよ。空はでっかい月みたいなのがいっぱいあるし、光る渦巻きみたいなのもあるし。街も高い建物とキラキラした明かりがいっぱいで…」
鈴葉が見慣れない景色について、あれやこれや説明をする。異界送りはそれを聞いても驚くことなく、なるほどと呟いている。
『街はサイバーパンクな感じなのかな。幻夢界や人間界より技術が進んでそうですね。空についてはボクも分からないなぁ。空神、何か知ってる?』
通信機の向こうに空神こと鋭子もいたようで、新たな声が現れた。
『どうも、鋭子です。エウメビたちと調べたところ、魔宮界の空にある大きな天体は、六体の悪魔を象徴する星のようです。ひと月ごとに一番明るい天体が変わり、月毎に支配する悪魔も変わるみたいです。ちなみに空に渦巻いているのはエネルギーで、こちらで言う雲と同じような認識でいいそうです』
「な、なるほど…?何となく分かりました。今は白い天体が一番眩しいですよ」
『うわ、白って絶対あいつじゃん』
『ですねぇ…』
鋭子の説明を聞き終え、鈴葉は巨大な白い星を見つめる。理解してもなお、空からは不気味さを感じる。通信機の向こうでは異界送りと鋭子が顔をしかめていた。
『幻夢界に来てる白い悪魔が支配の月みたいですね。まあ、支配者がいないのは、魔宮界を調査するにはもってこいです。頼みましたよ、鈴葉さん』
鋭子の言葉に、はいと強く答える鈴葉。
魔宮界、邪なる者が暮らす世界。幻夢界を侵略する白い悪魔に対抗するため、幻夢界も魔宮界への潜入を開始した。普通の幻夢界の者では魔宮界の邪気に毒されてしまうため、邪な力――堕落族の力を持つ鈴葉が単独で乗り込むことになった。
『鈴葉さん、気をつけてくださいよ。今回はボクも時空渡りもサポートできません。しかも、堕落族の力も使いっぱなしになります。力に飲まれそうになったら、緊急信号を送ってくださいね』
「任せて!」
自信たっぷりに言ってみせる鈴葉。
「ところで、何をどう調査すればいいの?」