海神の戯れ

 火山の噴火、森の衰弱、激しい暴風雨、大荒れする海。突然幻夢界を襲った自然災害。それらは封印状態だった幻夢界の創造神の四柱が目覚めた反動であり、神たちが正気を取り戻すと共に収まっていった。

 幻夢界の上空を漂う空神の住居、空跡宮。四柱を鎮めるのに一役買った獣天狗と木霊が、安堵のため息を吐く。一件落着と思われた今回の騒動だが、彼女らには最後の脅威が待ち受けていた。



「はぁ……はぁ……、くっ」
「稀炎や鋭子を相手にしたと聞いて期待したが、所詮この程度か」

 幻夢界の創造神の一柱、海神の水茂古句莉は物足りなさに溜息を吐く。古句莉は自身が突き出した薙刀の先で、倒れて苦しそうにしている獣天狗を見下ろした。
 このまま殺してもいいが、もうひと頑張りして楽しませてくれないだろうか。他の三柱からの加護を受けた獣天狗、ただものではないように思える。封印から目覚めて暴れたい古句莉にとって、彼女は珍しいおもちゃに見えていた。ピンチに陥ったら底力を発揮したりするだろうか……と薙刀の刃を天狗の首に当てる。

「水茂様、それくらいに――」

 空間の創造神、亭羽烏鐘鋭子が古句莉を止めようとするが、先に獣天狗が動いた。

「おお、本当に底力を」

 獣天狗は扇を使わずに、妖力で自身を中心に暴風を吹かせた。古句莉はバランスを崩し、後ろによろめく。その隙に獣天狗は起き上がって古句莉と距離を取る。
 獣天狗はもう限界のようで、加護のおかげで立てているような状態だった。妖力は枯渇していて、足元がおぼつかず、目も座っている。それでも古句莉へ抵抗しようとする意思は強く、恐怖よりも敵意を向けられているのが分かる。
 四柱の中で最も恐れられている自分に対して、逃げずに向かってくる獣天狗の度胸に感心した。古句莉はにやりと笑う。こうも面白いと、壊れるまで遊び尽くしたくなってしまう。

「いいじゃねえか!もっと楽しませてくれ!」

 古句莉が猛接近し、薙刀を振り下ろそうとした時、獣天狗の雰囲気が変わった。本当にわずかの差だが、何か違和感を感じる。

「いい加減に、してっ!」

 獣天狗が扇を振るい、渦巻いた風が古句莉を襲う。古句莉にとって特に脅威でない攻撃だったが、思わず足を止めた。先程の違和感とこの風の攻撃が合致したのだ。

「こいつ……」

――――――

「ふぅ~、今回はこれくらいでいいか」
「うぐぐ、ひどい……」

 獣天狗で遊ぶのに満足した古句莉は、大きく伸びをして戦いの終わりを告げる。獣天狗はやっと解放されたと仰向けにぶっ倒れ、そこへ連れの木霊や式神が様子を見に駆け寄って来た。

「本当にひどいですねぇ。水茂様にとってはお遊びでも、あの方にとっては命懸けなのに」

 獣天狗たちと少し離れて立っていた古句莉の元に、鋭子が呆れた様子で話しかけてくる。

「お前も暴走して獣天狗のこと殺しかけてただろ」
「うっ……、わざとではないとはいえ、五十歩百歩ですね……。それはそうと」
「お前も気づいたか?」
「ええ」

 古句莉も鋭子も例の違和感のことを思い浮かべていた。あの違和感は獣天狗から発せられた負のエネルギーだ。怒りや憎しみ、恐怖などの感情から生まれる負のエネルギーは、妖怪を強くも弱くもする力だ。獣天狗も古句莉に対して負の感情を抱いてはいたが、戦う相手に向けるごく一般的な感情だった。二人が感じ取った違和感は、もっと強烈な、普通の妖怪が能力で使うような力とは違う負のエネルギーだった。

「まるで堕落族だな、ありゃ」
「はい。しかも、あの怨霊の堕落族と似ています」

 創造神にも匹敵する力を持つ堕落族という種族。幻夢界の破壊を目的としていて、創造神を殺すために命や負のエネルギーを食して力を蓄えている存在だ。

「しかし、なぜあのような天狗から堕落族の力がしたのでしょう。今は全くその気配がありませんし」
「さあな。まだ堕落族とは比べ物にならない、周りに気づかれもしない程度の力だったが、今後どうなるか」

 古句莉と鋭子はそう話して獣天狗たちを見守る。木霊の治癒術で獣天狗は少し元気を取り戻し、上半身を起こして災難だったと嘆いている。

「今のうちに排除しておきますか?」

 鋭子がエネルギーを集めて黄金の剣を創り出そうとするが、古句莉は首を横に振った。

「おや、あなたにしては珍しい」
「あいつが堕落族と関係あるのなら、生かしておいた方が得だろ。あの様子だと堕落族と絡んでる様子もないし、周りも気づいていない。他の堕落族の出方を窺えるし、囮にしてもいいかもな」

 なるほど、と言って鋭子は剣を光の粒子に戻す。普段は平和主義な鋭子だが、相手が堕落族かもしれないとなれば、古句莉の企みにも納得してくれたようだ。

「じゃあ、私はそろそろ帰るわ。天狗の観察、頼んだぞ」

 古句莉は鋭子に監視を押し付け、文句を言わせないためにも獣天狗の元へ向かった。
 獣天狗はこちらに気づくと、げっとあからさまに嫌そうな表情をする。

「じゃあな天狗!お前の足掻き、気に入ったぞ!また遊びに来てやるからな!」
「来なくていいです……」
「遠慮するな!さて、刃、帰るぞ」

 古句莉は自分の式神を呼び、浮遊術で宙に浮く。そして刃を従えて空跡宮を後にし、西に広がる海へ帰った。



 遥かなる海の海底。太陽の光が僅かにしか届かない場所に、ひっそりと神社が建っていた。神社はドーム状のうっすらと光る結界に覆われており、結界内は視界に困らない程の明るさになっていた。そして中には海水はなく、地上のような空気がある空間になっている。
 古句莉は自身の住居である海底神社の結界をするりと抜け、神社に続く石畳みの上に着地する。少し遅れて刃が古句莉の側に降り立つ。二人とも海の中を進んできたが、自身の周りに水を弾く術をかけていたため、髪一本濡れていない状態だった。

「さて、ゆっくりするかー、と言いたいところだが、いろいろ聞かないといけないな」

 古句莉は境内を歩き、賽銭箱の上にひょいと腰掛ける。一定間隔を開けて刃がついてくる。

「この七百年のこと、教えろ」

 古句莉含め、他の創造神たちも七百年間眠りについていたため、幻夢界で何が起きたか全く知らない。先程、海と空跡宮を往復した時に見た世界の景色は特に変わった様子はなかったが。
 刃はこの質問が来ることを予想していたのか、悩むことなくすんなりと言葉を口にする。しかし、古句莉の質問に対する答えではなかった。

「その前に、四柱に何があったのか教えてください。なぜ急に封印状態になったのですか。他の式神たちも何も知らず、幻夢界の維持に必死だったのですよ?」

 刃は少し怒りつつも心配するような声色でそう言った。

「あー、あれな。私らにも分からん。守護神から危険信号が飛んできて、なんも分からんまま寝てたんだよ。その守護神に聞こうにも、居場所が把握できなくなってるし。後で調べるしかないな」
「……そうですか」
「これで満足か?だったら私の質問に答えろ」

 刃は分からずじまいの解答に肩を落としたが、気持ちを切り替えるために咳ばらいをして報告を始める。

「一番大きな出来事でいえば、堕天霊(だてんりょう)が消滅したことですね。紅葉岳の天神が命懸けで成し遂げました」
「はぁ?マジかよ、堕天霊死んだのか?」
「はい。あれ以来堕落族は大人しくしています。トップが入れ替わってごたごたしていたのでしょう」

 予想外過ぎる報告に古句莉は頭を抱える。堕天霊が死んだというのなら、さっきの天狗の力は何だったんだ。

「刃、お前、あの天狗の力に気づいたか?」
「力……。途中から闇属性の力を感じましたが、それくらいしか」
「ほーん」

 刃は古句莉の力の一部を宿した式神であり、もともとの祀られる神だった。実力も高く、四柱の式神の中でも一番強く、相手の妖力も敏感に感じ取れるはずだ。その刃が堕落族の力に気づけないとなると、やはりあの天狗の力は本当にわずかな邪気だったのだろう。しかし鋭子も感知しており、古句莉の勘違いではないことは確信できる。まだ力が覚醒していないのだろうか。
 古句莉が少し考え込んで黙っていたため、刃が何を企んでいるのだと言いたげな視線をこちらに向けていた。

「あの天狗、堕落族の関係者かもしれん」

 軽く刃に情報を伝えると、刃は納得いかなさそうに腕を組む。

「空神様もそうおっしゃるのなら間違いないのでしょうが、疑問しかありませんね。あなたの命令通り、あの天狗に奇襲を仕掛けましたが、実力も一般的な獣天狗と変わりませんでした。なぜそのような者が堕落族の力を?」
「さあな。堕天霊の手下かと思えば、堕天霊は死んでるし。放っておくわけにもいかんしなあ」

 古句莉は賽銭箱から降り、刃の目の前に立つと、刃は口元を歪めて咄嗟に目を逸らす。古句莉はにんまりと笑って、背の高い刃の肩に手を伸ばしてぽんぽんと叩く。

「調べてきてくれるよな?」
「水茂様は目覚めたばかりですし、情報整理や力の制御も大変でしょう。私がもう少し幻夢界維持の管理を――」
「大丈夫だ!さあ、調査してこい!チュウジツなシモベよ!」

 刃は苛立ちで瞳をぎらつかせて刀に手を持っていくが、何とか冷静さを取り戻して諦めの溜息を吐く。

「仰せのままに。……まったく、もうしばらく封印されていればよかったものの」

 刃はぶつぶつ文句を言いながらしもべの白蛇を召喚し、命令を叩きこんでいく。

「で、その天狗はどこにいるのですか」
「知らん、自分で探せ」
「クソ邪神め……」

 古句莉はもう刃に興味はないと背を向け、神社本殿の中へ消える。背中に刃の物言いたげな視線を感じたが、無視して格子戸を閉じて遮断する。数百年ぶりに浴びる殺意もなかなか良いものだ。

――――――

 秋が過ぎ、幻夢界は年明けの冬、初間になった。
 刃に呼び出され、古句莉は欠伸をして起き上がる。せっかく気持ちよく鳥居の上で昼寝をしていたのに。下に早く降りてこいとオーラを放っている刃が腕組みをしている。仕方ないと、波に流されるクラゲのように宙を漂って下まで降りる。やる気が出ない時はこれが楽なのだ。

「しょうもない報告だったら胴体真っ二つな」
「例の天狗の件ですが、どうでもいいのなら胴でも首でも好きなところをどうぞ」
「おお、やっとか!」

 古句莉はころっと機嫌を取り戻し、食い入るようにそれでと先を促す。

「最初に動きがあったのは終間(年の終わり)です。天狗が苦しそうに闇の、いえ、堕落族の力を纏いながら、ノジア方面へ飛んで行きました」
「ノジア?あんなところに何しに行ったんだ?」

 古句莉たち四柱が拠点にしているエスシ地方。その西の海を越えた先にあるのがノジア地方だ。かなり距離があり、一日二日で行ける場所ではないはずだが、飛んで行ったと刃は言った。

「ノジアで何をしていたかは分かりません。さすがに監視の蛇たちもそこまで追えませんので。数日後、いつも通りの天狗と、なぜか朱燕も一緒にエスシの方へ帰ってきました」
「朱燕?非常食か?」
「かもしれませんね」

 最弱種族の朱燕まで海を越えてくるとはどうなっているんだ。眠っている間に種族の改変でも起きたのか?と古句莉は首をひねった。

「ここからが肝心なのですが、天狗がノジアから帰ってきてから、紅葉岳の方で動きがありました。ああ、そういえばあの天狗は野老屋の森に住んでましたよ」

 紅葉岳というと、天狗種が根城にしている山だ。群れる種族であるため、あの天狗もそこにいるのだろうと思っていたが、紅葉岳南の森にいたらしい。

「初間になって、例の天狗が紅葉岳の天狗に、山の頂上付近まで連れていかれました。そこであの力が出てきました。蛇たちの視界からでも一目瞭然で、ただの闇の力ではないと分かりました」
「……それで?」
「あの天狗の正体は、堕天霊の生まれ変わりです」

 神にも及ぶ力を持つ堕落族、そのトップの堕天霊。古句莉たちが封印されている間に消えたというのはぬか喜びだったというのか。堕天霊は再び幻夢界へ降り立っていた。

「堕天霊の力は覚醒したのか?」
「微妙ですね。一応制御できるようになったようですが、使えるのは力の一部だけです。堕天霊の意識も目覚めていないようですので、今のところは問題ないでしょう」
「なるほど……」

 古句莉は少し黙って考える。今のところは問題ないのだろう、今のところは。しかし、いつ天狗の肉体が力に飲まれるか、堕天霊の意識が目覚めるかは分からないのだ。明日かもしれないし、杞憂かもしれない。状況の悪化が幻夢界に天変地異をもたらすくらいの問題だ。

「よし、刃は鋭子にこのことを伝えてこい。稀炎とシャナスには鋭子に任せとけ」
「承知しました。その様子ですと、水茂様も何かなされるのですか?」

 刃の問いかけに古句莉はにやりと笑う。

「ああ。私はあの天狗に会いに行く!」

 どこまで覚醒が進んでいるのか、危険度がどれくらいなのかを直接調べる。危険な予兆があればその場で殺すなり監禁するなり、古句莉の好きなようにするつもりだ。

「……いえ、それはやめておきましょう」
「何だと?私直々出向くと言っているんだぞ?ありがたいだろう?」

 古句莉がドヤ顔で言うと、刃はジロリと古句莉を睨む。

「あなたが地上に出ると災害が起きます。一人でなんてエスシ地方が壊れます。やめましょう」
「私を何だと思ってるんだ」
「歩く災害、邪神、幻夢界の悪」
「それは堕落族だろう」

 刃の反対を押しのけ、さっそく地上へ向かおうと浮遊術を使う。

「せめて海から出る時に津波を起こすのはやめてくださいよ!」
「へいへーい」

 下で叫ぶ刃に返事をし、海底神社の結界をくぐる。海水が道を開けるように古句莉への抵抗を消し、猛スピードで地上へ向かって進んでいく。すぐに地上が見えてくる。そのまま勢いよく地上に出たい所だが、津波を起こさないようにスピードを落とす。我ながら気を利かせて優しい神だと思う。
 地上、野老屋の森の西海岸に上陸する。現在地上は冬で、肩も足も出た服装の古句莉は身震いする。すぐに周囲の気体の水分を操り、寒さを感じないように気温を上げる。

「さて、この森にいるそうだが、森のどこにいるんだ?」

 野老屋の森はここらでは小さい森だが、狭いわけではない。家のような建物があるのだろうか。小さな村があるとのことなので、そこを目指してみよう。村の場所も知らないが。そこまで伝えない刃の気の利かなさに呆れた。
 海岸と森を行き交う者に作られた獣道を辿り、道のままに歩いていく。森にはうっすらと雪が積もっている。さっさと天狗を見つけたいが、こんな寒い時期は皆外を出歩かないだろう。

 細い踏みならされた道を進んで行くと、森が開けて草原に出た。少し先にまばらに建物が並んでいる。村と呼んでいいのか分からないくらいにしょぼい。人の姿も見えないため、一番手前にあった小屋のような木造の家の扉を叩く。

「はーい」

 力強い男の声。がらりと引き戸が開けられ、ガタイのいい牛のようなツノが生えた男が現れた。

「どちら様……え?」
「よお、天狗知らんか?」

 牛男は固まって古句莉を凝視している。

「か、海神、様……?」
「いかにも」

 七百年ぶりに目覚めて以来、海から出ていないため、古句莉を知っているということはそこそこ長生きしている者であろう。牛男は強そうな見た目に反し、怯えたような目で古句莉を見て震えている。

「て、天狗?鈴葉ちゃんのことですか?」
「多分そいつだ。この森に住んでると聞いたが、村にいるのか?」
「い、いえ……。鈴葉ちゃんは木霊の風沙梨ちゃんと住んでるそうでして……。木霊は木に術をかけて住むため、私たちも家がどこにあるかは知らなくてですね……」
「木に住み着く?」

 家の見た目がただの木ということか。誰にも住処を明かしていないとは、あいつら見た目によらず警戒心が高いのかと感心する。

「大体の場所も分からないのか?」
「森の北側だと思いますが……す、すみません」
「うーん、森の半分も探さないといけないのか」

 どうするかなと腕を組んで悩むと、牛男がわたわたと焦る。ごっつい身体で落ち着きのないやつだ。

「あ、あの!少々お待ちくだい!」

 どたばたと家の中へ引っ込んで行く牛男。すぐに何かを持って帰ってきた。紙皿に乗せたいい匂いのするものを持っている。

「それは?」
「ただの焼き鳥です。これを持って行ったら、もしかすると匂いにつられて来てくれるかも……」
「んな、まさか。虫かよ」

 よく分からないが、美味そうなので受け取っておく。地上の食べ物は好きだ。サンキューと言って背を向けると、牛男はほっと胸を撫で下ろした。
 来た森に戻り、焼き鳥を持ちながら獣道を外れた地を進んで行く。美味そうなタレの匂いによだれが出る。せっかくまだ温かいのに、このままでは冷めてしまう。食ってしまおうか。なぜ天狗なんかのために自分が我慢しなければいけないのか。探す手段がこれしかないのなら、力ずくで木々を薙ぎ倒して見つければいいのではないか。
 歩きながらそのような考えを巡らしていると、茂みがガサガサと揺れた。

「いい匂い……」
「なんだこいつ」

 目的の天狗が頭に雪を乗っけて、ふらふらと姿を現した。あの牛男、侮れないな。

「よお、天狗。遊びに来たぞ」
「うわ、あの時の怖い人だ……」
「土産も持ってきたぞ!」
「優しい人だ!!」

 焼き鳥を見せると、天狗は嬉々として駆け寄ってきた。
 古句莉は目的の天狗を見つけられた。もうこの焼き鳥を持っている必要はない。ということで、駆け寄ってきた天狗の目の前で、自分の口に肉を突っ込んだ。