異端の鬼(中編)

 やってしまった。
 時刻は朝の五時頃。夜の間にまた雪が降ったようで、雪掻きされていた道が白くなっている。まだ起きている者が少ない静かな里を、小姫は慌てて走り抜けていた。
 昨夜は桜蘭のことを考えながら眠ってしまったが、小姫にはやらなければいけない作業――昼間大鬼に命令されていた薪作りが残ったままだった。
「くそっ、何やってんだか」
 小姫は油断していた自分に悪態をつきながら、薪を放置している場所へ向かう。今から急いで作業すれば、大鬼に気づかれる前に終わらせられるかもしれない。後は薪を乾かすための場所に移動させるだけなのだから。
 作業場に着くと、積まれた薪が雪を被っている姿が目に入った。雪ごと抱える勢いで持てるかぎりの薪を両腕で抱え込む。そして新雪を蹴り飛ばしながら指定された場所へ走る。ぐっすり眠ったため、体力はしっかり回復していた。そのせいでピンチに陥っているのだが。
 死に物狂いで往復作業を続け、一時間ほどで最後の一抱えになった。すっかり踏み荒らされた道を一走りし、積み重ねた薪の山に最後の薪を加え、ほっと息をつく。なんとか終わった――
「よう、ご苦労だな」
 意地悪い男の声。安堵した小姫を嘲笑うかのように、薪作りの仕事を押し付けてきた大鬼が現れた。小姫の顔からさっと血の気が引いた。
「随分時間がかかったんだなぁ?威与様は昨日のうちに自宅に着いていたそうだが?お前は一晩かけてこの作業を終えたってことでいいか?」
「え、えっと……その」
 小姫がどう答えるか迷っていると、大鬼はニコニコと笑い、小姫に手を差し出した。そしてその手を返して小姫のツノをガッと握る。
「俺の質問に素直に答えられないと?ゴミのくせに言い訳しようとでも?」
 大鬼はツノを掴み、小姫を引きずりながら里の外れへ歩いて行く。
 おわった。抵抗すればさらに酷い目に遭う。小姫は大人しく雪の上をずりずりと運ばれて行った。
 全身が痛みで熱い。しかし、皮膚を伝う赤い液体は冬の風で冷やされ、体温を奪っていく。焦点の合わない視界には、気晴らしをしたというのに不満そうな大鬼が何か言っていたが、朦朧とする意識では理解できなかった。大鬼は舌打ちをして、最後に小姫の脇腹を蹴ってから里へ帰って行った。
「あし……」
 木の幹にもたれかかっている小姫だが、少し先には引きちぎられた自分の右の膝下が転がっている。早くくっつけないと、と赤く染まった雪の上を這う。腕も折れているのか上手く身体を支えられず、不細工にもがいて進む。視界がおかしいと思ったら、左目も潰れていたらしい。なんとか足を掴み、本来あるべき位置にあてがう。鬼の回復力をもってすれば、しばらくすれば再生していくはずだ。殴られ、叩きつけられ、捻じられ、引き裂かれた身体を横たえ、回復を待つ。まだ血は止まらず、浅く早い呼吸をして目を閉じていた。
 痛みすら麻痺しかけた意識の中、ぼんやりと桜蘭のことを思い出した。結局これが自分の日常なのだ。桜蘭のような存在はただのイレギュラー。優しくされ、どこか期待してしまったがために、先程の大鬼が手を差し伸べてきた時にも、ほんの僅かに希望を抱いてしまった。馬鹿みたいだ。自分は奴隷、異端児、ゴミ、不満の捌け口。立場を理解しろ。この里の何者にも心を許すな、信用するな。
 小姫の心に黒いモヤがかかる。自死さえも許されない言葉の呪い、恐怖を威与にかけられ、絶望と百年も共に過ごしてきたのだ。心を殺すことくらい容易い。桜蘭のことは忘れよう。
 一時間程、何度か意識を手放しながらも安静にした結果、なんとか動けるほどまで回復した。まだ右足に力は入らないし、目は霞むし、折れた骨も潰れた内臓も痛むが、移動程度ならできるだろう。何も命じられていない時は眠っていた倉庫にいるように言われている。風も人目も防げるし、早くそこに戻りたい。足を引きずりながら、鬼のあまりいない物陰を通って櫛田家に向かう。
 たまにすれ違う鬼に悲鳴を上げられながらも、もうすぐ櫛田家に着くところまで来た。あと少し。しかし、そこで最悪な相手と遭遇してしまった。
「こ、小姫!?」
 どす黒い血にまみれた酷い姿の小姫を見て、桜蘭がぎょっとする。自分と対称的な鮮やかな赤い着物が眩しい。桜蘭は小姫に駆け寄って大丈夫か聞きながら、どうしようかと慌てている。
「どうも、私は先を急ぎますので……」
 小姫は虚ろな声でそう言うと、支えようとしてきた桜蘭を避けて歩き出した。桜蘭は一瞬押し黙ったが、すぐに行く手を塞ぐように回り込んでくる。
「手当しないと!杖があれば、少しなら回復術も使えるから待って――」
「いえ、結構です」
「な、なに言ってるの!?どうせ櫛田家に戻っても何もしてもらえないんでしょ?小姫が死んじゃう……!」
 必死な桜蘭を小姫は冷めた目で見る。冬空のように曇った瞳に桜蘭は映っておらず、深い闇だけがあった。そして小姫はふふっと笑う。その笑顔を見て桜蘭が怯んだ。
「私に関わらないでください」
 桜蘭の立場を思いやっての言葉ではない。小姫からの拒絶の声だった。
「こ、ひめ……」
 小姫の言葉の見えない威力に、桜蘭が唖然とする。悲痛な表情は演技でもない彼女の素だと分かるが、もう良いのだ。自分たちは関わるべきではない。
 次こそ桜蘭の横を通り過ぎ、自分のいるべき場所へと向かう。冷たい風が吹き、白い息が後方へ流れていく。
「じゃあ……れて……く」
 背後で小さく桜蘭が何か言った。気にするつもりはなかったが、直後、猛スピードで桜蘭がこちらへ踏み出したのが感じ取れた。振り返る間もなく。肩と膝裏に腕を回され、簡単に抱き抱えられた。思わず、へっと間抜けな声を出してぽかんとする。
「小姫の分からず屋!嫌がっても連れて行くからね!」
 桜蘭は血で服が汚れるのも気にせず、小姫を抱えたまま方向転換して華月家の方へ歩き出した。諦められるか引き留められるかは予想していたが、連れ去られるとは思わなかった。驚きつつも、今の身体では抵抗すらできないと観念し、大人しく誘拐されることにした。
 人目につくのを桜蘭も気にしているのか、早足で人通りの少ない道を通っていた。そして華月家の玄関まで来ると、門番が溜息を吐いて桜蘭を通す。
 桜蘭は倉庫のような建物の扉を足で開けて中に入る。中は薄暗いが整理されていて、埃っぽさもない。普段からよく使っているのだろう。床も土ではなく、木材が張られている。ゆっくりと床に降ろされ、何かを探しに行った桜蘭の背中を見つめる。
 急に疲労と痛みが押し寄せ、あれこれ考える余裕すらなくなる。へなへなと後ろの壁にもたれて、身体の力を抜いていく。
「ごめん、たいしたものなかったけど、とりあえずこれで」
 桜蘭が毛布と灯かり、そして昨日持っていた桃色の珠がついた杖を持って戻って来た。ランタンのような灯かりは、中に炎の妖鉱石が入っているようで、少し暖かい。
「まず目と足で良い?」
 どこが一番痛いかもわからないため、適当に相槌を打つ。桜蘭が杖に力を込めると、桃色の珠がふんわりと優しい光を放つ。まだ回復しきっていない左目に、妖力が流れてくるのが分かる。ゆっくり、少しずつ目の違和感が消えていく。
 桜蘭は杖なしでは治癒術を使えないと言っていた。不得意な術を使うには、普段より多く妖力を消費するものだ。多く妖力を蓄えているという杖を使ってもなお、桜蘭の額に汗が滲み始めていた。
「無理しなくていいので」
「無理してるのはそっちでしょっ!大人しく休んでて!」
 桜蘭は目の治療を終えると、壁にもたれていた小姫を仰向けに寝かす。そして右足の治療に取りかかった。足の方も徐々に痛みが和らいでくる。同時に小姫の瞼も重くなり始め、張り詰めていた意識がぷつんと途切れた。
「父さま、どうして小姫は外にでてはいけないのですか?」
「外は危険がいっぱいだからね。小姫はまだ幼いから、恐ろしい妖怪に食べられちゃうかもしれないだろ」
「でも、父さまと一緒なら大丈夫じゃないですか?なんなら母さまもいれば……」
「母さんは忙しいからね。父さんたちが襲われたら、母さんが心配してしまうだろ?ここで大人しくしているのがいいんだよ。我慢してくれ」
 小姫の父は申し訳なさそうな表情で小姫の頭を撫でる。生まれてから三年、一歩たりとも家の外に小姫を出したことはない。父親と母親以外の人物に合わせたこともない。小さな家の中で、誰にも見つからないように過ごさせるしかなかった。大鬼と小鬼のハーフの存在を知られるわけにはいかないから。父親の自分が罰を受けるだけならいい。だが母親の威与は里の権力者の一人娘という立場、彼女ほどの大鬼が禁忌を犯したと知られれば、どんな仕打ちを受けるか分からない。そして小姫は間違いなく殺されてしまうだろう。家族を守るため、この小さな唯一の生き場所に小姫を閉じ込めるしかないのだ。
「小姫がつまらない思いをしないためにも、いっぱい父さんと遊ぼうな」
「はい!父さま大好き!」
「ははは、父さんもだぞー」
 小姫を抱きしめ、精いっぱいの愛情を伝える。小さな両腕が抱き返してくれる幸せを噛みしめる。
「小姫は父さんの宝物だからな。いつか、小姫が自由に、幸せに笑って暮らせるところに三人で行こうな。そして、小姫も宝物を見つけるんだぞ」
 そんな穏やかな時間も、終わりは唐突に訪れる。
 家の扉が開き、威与がやって来た。今日こっちに来る予定はなかったはずだが。威与は青ざめた顔で目を逸らし、道を譲るかのように横に移動して、こちらに指を向ける。そして威与の後ろから、櫛田家の大鬼の面々がぞろぞろと立ち入ってくる。咄嗟に小姫を背中で隠すが、もうバレバレのようだ。
「貴様が我が娘を脅してこんなことを……!」
 威与の父親、櫛田家当主が怒り狂って顔を赤くして怒鳴る。威与を脅す……?なんのことか威与に助けを乞うが、威与はそっぽを向いて何も言わない。理解した。捨てられたのだ。
「どうか、小姫だけでもお助けください!この子に罪はありません!」
「黙れっ!小鬼の分際で!」
 威与の父親に蹴り飛ばされ、勢いよく壁に叩きつけられた。小姫が怯えて泣きながら駆け寄って来る。
「威与。こいつはもうお前を脅す必要もない。今までの恨み、屈辱、お前の手で晴らせ」
 威与の父親は長い刀を威与に渡す。威与はそれを受け取り、よろよろと部屋の隅で身を寄せるこちらへ歩いて来る。
「母さま……?」
 小姫が声をかけるが、威与は魂が抜けたような足取りを止めず、刀を鞘から抜いた。そして、家族三人にしか聞こえない微かな声で言う。
「すまない。私には、この選択肢しか、残されて、いな、い」
 震える声でそう言い、決意を決めるかのように目を閉じた。次に威与が目を開くと、先程までの動揺は消えていて、冷淡で無慈悲な別人の表情になっていた。そして――
スパン!
 視界が回った。噴き出す血飛沫と、威与の持つ刀の光、そして小姫の恐怖に染まった顔。次の瞬間、威与の足に踏みつぶされ、小姫の父親は息絶えた。
 ゆっくりと意識が戻り始める。最悪な夢を見た。小姫の人生が一転した日の記憶。心臓がバクバクし、嫌な汗もかいている一方、何かに守られているような、安心するような感覚もある。まどろみの中で、だんだん思考と感覚がはっきりしてきた。頭を撫でられているのだ。眠気で重い瞼を開けると、薄暗い倉庫の中。たしか桜蘭に連れて来られたはずだ。床で寝ていて身体が強張っているが、頭は枕のような何かにもたれている。
「あ、起きた?」
 桜蘭の声がすぐそばで聞こえた。はっとして声の方、斜め上に視線を送ると、こちらを覗き込む桜蘭の顔があった。体勢的に、今自分は桜蘭に膝枕をされている……?
「ああ、急に動かない方が――」
「うっ」
「ごめん、目で見える範囲は治せたんだけど、身体の中は怪我の場所がわからなくて……」
 そういえば傷を治療してもらっていたのだった。じっとしていれば痛みを感じない程に傷は回復しているようだが、起き上がろうとするとまだあちこち痛む。桜蘭の顔は少し血色が悪く、疲労しきっている。そこまでして苦手な治癒術を施してくれたのだろう。
「大丈夫です。これくらいなら、後は自分で回復できます。……ありがとうございます」
 小姫はそう言って、ゆっくり上半身を起こす。かかっていた毛布がするりと落ち、肌が空気にさらされて寒い。肌が……?
「あ、その!傷探すときに脱がしただけで!血まみれだったから勝手に洗っちゃったけど、多分もう乾いてるはず!」
 桜蘭が慌てて立ち上がり、足が痺れたのかぎこちなく歩いて行った。別に気にしないのに。
「はい、これ。……ぼろぼろになっちゃってるし、私のおふるあげようか?」
「いえ、私がボロ布以外着ていたら不審がられます」
「そっか……。ちょ、ちょっとは隠してよ!」

 

 一人恥ずかしがっている桜蘭から服を返してもらい身にまとう。炎の妖鉱石で乾かしていたのか温かい。しかし大鬼のせいで本当にボロ布同然になっていて、ただでさえ薄い生地なのに、肌を覆えない部分までできてしまっていた。帰ったら雑巾にでもしよう。
「小姫」
 桜蘭が先程座っていた場所に座り、隣に座れと床をぽんぽん叩く。迷ったが大人しく従う。
「櫛田のところの鬼にやられたの?」
「まあ、そんなところです。たまにされるので大したことありません」
「たまにって……そんなのが許されていいわけないじゃん」
 また桜蘭が自分のことで怒っている。拒絶したのに、そんなことなかったかのように小姫を心配し、手当てし、現状を嘆いている。どうして……。
「もう、行きます。ありがとうございました」
 桜蘭と関わらない。そう決めたのだ。桜蘭への疑問と戸惑いで心が揺らがないうちに別れた方が良いと思い、小姫は立ち上がろうとする。
「待って」
 しかし桜蘭は小姫の手首を掴んで阻止する。
「あのさ、小姫は私のこと、嫌い?」
「そういうわけでは……」
「でも、避けようとしてるよね?私が大鬼だから?それとも、鬱陶しかったりするのかな」
 桜蘭はじっと小姫の顔を見つめる。赤い瞳が不安で揺らいでいる。彼女自身に問題はないと小姫も思っているが、そう答えて優しくされても困る。罪悪感でその目を見つめ返せず、黙ったまま自分の手元に視線を落とす。桜蘭も黙ってしまい、空気が重くなる。
「私は……あなたが理解できません。私と接しても、あなたには不利益しかないでしょう」
 耐えかねた小姫がそう言うと、桜蘭は少し迷った後、照れ臭そうに頬を掻いて話し始めた。
「あるよ……。私、華月家の一人娘ってことで小鬼にも大鬼にも、みんなに敬われるの。でも、華月家の娘だからそうされてるだけで、私に心から親しくしてくれる鬼はいない。友達もいない。親も礼儀作法や勉強のことしか言ってこない。みんな身分のことばかり。
 でも、小姫となら、櫛田家の一人娘のあなたとなら、立場は一緒のはずでしょ?だから小姫となら友達になれると思うの。種族や身分の壁なんてくだらないけど、私から歩み寄っても相手に避けられたらどうしようもないもん。
 私が小姫に近づくのは、ただ友達が欲しいだけなの。ダメかな?」
 小姫の手首を掴んでいた桜蘭の手が、手の甲に重ねられる。
 そうか。桜蘭は輝いた世界にいるとばかり思っていたが、彼女は無理矢理光を浴びせられていただけで、孤独だったのだ。桜蘭の行動のわけは分かったが、それでも種族差という高く分厚い壁が小姫を思い止まらせる。友達になったとしても、小姫が忌み嫌われるのは変わらない。むしろさらに目をつけられ、桜蘭ともども嫌がらせをされるに違いない。
「実は、両親に小姫と接することは許可されたんだ。櫛田家の情報を探るためって嘘の言い訳して説得したの。だから、私は華月家のために小姫を利用している設定なの。そんなつもりはないんだけどね。だから変な心配はしなくていいよ」
 小姫の心配を読んだかのように桜蘭はそう言った。雪掻き免除に治療に、異端児と接することを許可されるなど、たったの一日で小姫のためにどれだけのことを成すのだこの鬼は。小姫は驚きで開いた口が塞がらない。
――小姫も宝物を見つけるんだぞ
 夢で見た父の言葉がどこかから聞こえた。たからもの……。
 小姫は顔を上げ、桜蘭と目を合わせた。桜蘭はふふっと笑って、小姫の手を握りしめる。
「初めての友達同士だね」
 小姫の凍った心に大きなひびが入り、どんどん脆くなって剥がれ落ちていく。そして氷は暖かな空気に触れて溶け、雫となってこぼれ落ちた。
「あ……わ、わた、し」
 ぽろぽろと小姫の頬を伝う大粒の涙。どうして泣いているのか分からず、困惑して目元を拭うが、すぐに溢れてしまう。そんな小姫の肩に桜蘭は腕を回し、もたれさせるように引き寄せた。桜蘭に抱きつくような体勢になり、彼女の温かい体温が小姫を包み込む。
「桜蘭様……」
「様なんてつけないで、呼び捨てでいいよ」
 そのまま頭を撫でられ、小姫の感情が決壊する。
「おう、らん……!う、あぁ……あああああああああああああああああ――」
 堪えていた声も抑えられなくなり、嗚咽交じりに泣きじゃくる。今まで受けてきた酷い差別や理不尽な扱い、仕方ないと割り切っていたつもりだが、蓄積してきた不満が涙となって爆発していた。桜蘭に強く抱き着き、子供のように泣きじゃくった。桜蘭は小さい声で辛かったねと言い、ゆっくり頭を撫で続けている。
 この優しさが嘘でも夢でも構わない。彼女が自分を騙していたとしても、今はそんなこと疑う余裕がなかった。百年分の辛い思いを叫び、涙が枯れるまで桜蘭に縋り付いていた。
「落ち着いた?」
「……うん」
 小姫は鼻水を啜りながら、泣きはらした目元を袖で拭う。
「ごめん、桜蘭の着物汚しちゃった」
 小姫が抱き着いて泣いていたせいで、桜蘭の肩の部分が涙で染みになっている。桜蘭は今気づいたかのようにその部分を見て、目をぱちくりさせる。
「いいのいいの、これくらい。それより、小姫が敬語じゃなく普通に話してくれて嬉しいよ」
「むぅ、誰のせいで……」
 小姫が泣き止みかけて、桜蘭に聞いてくれた礼を言っていた時、慰めると同時に桜蘭は敬語じゃなくていい、タメ口で話して、はいじゃなくてうんなど、いちいち小姫の言葉を訂正してきたのだ。強引な鬼だ。
「ところで、私がここに来てからどれくらい経ってるの?」
「朝の八時くらいだったっけ?今は多分正午前くらいだよ」
 午前中はほとんどここで過ごしてしまっていたのか。いくら桜蘭と友達になったとはいえ、周りに公表できることではない。小姫が消えていた空白の時間を、威与や他の櫛田の鬼になんと言い訳しようか。桜蘭も察したようで、顎に手を当ててうーんと唸る。
「いっそのこと二人で威与様の前に行っちゃう?」
「何言ってるの?」
 桜蘭のぶっ飛んだ提案に、小姫はじろりと横目で桜蘭を見る。
「ほら、私は小姫から櫛田家の情報を探ってる設定って言ったでしょ?その設定を威与様にも教えるの。小姫も私から華月家の情報を探っていることにしちゃえば、威与様の役に立ちつつ、私たちが会うことも不審がられないんじゃない?」
「うーん、危険すぎない?本当に家の情報漏らしたら、お互いにただじゃ済まないよ」
「適当にそれっぽいこと言えばいいのよ。例えば私の母親が虹の森へ向かっていたから、外で何か企んでいるのかもとか。日常的な情報を教え合って、そこにそれっぽい憶測をつけちゃえば、嘘はついてないことになるでしょ」
「なるほど……?」
 その程度で威与たちを欺けるのだろうか。不安に思う一方、下手な言い訳をしてまた殴られるよりはマシだと、桜蘭に同意する。
「じゃあ、早速行こうか」
 立ち上がり、桜蘭が手を差し出す。小姫は口元を緩め、その手をしっかり掴んで立ち上がった。
 片づけや支度をしながら、軽く打ち合わせをして倉庫から出る。ある程度暖かかった室内と冬の外気との温度差に、ぶるっと身震いをする。昨日のお札を桜蘭が差し出してくれたが、ボロボロの服を来た今の小姫では札を隠して貼れないため断った。
 二人は少し距離を開けて歩き、桜蘭が先の道を進んでいた。道行く小鬼が桜蘭に頭を下げ、後ろの小姫を避けて通り過ぎていく。一緒に行動しているとは思われていないようだ。
 桜蘭は櫛田家に着くと、門番に威与がいないかと尋ねている。門番は首を傾げながら、屋敷に威与を呼びに行った。少しして、護衛や門番も連れてくることなく、威与だけが玄関に出てきてくれた。小姫は少し離れた場所で立ち止まり、二人の話途中で玄関に入れないふりをする。世間には小姫と桜蘭の関係を隠すためだ。桜蘭越しに威与は小姫を見つけ、何をしているのかと眉をひそめている。
「お久しぶりです、威与様」
「華月の一人娘ではないか。一体なんの用で?」
「実は……」
 桜蘭が小姫の方を向き、目配せする。小姫はおずおずと二人の元へ近づき、桜蘭の隣に立って威与に頭を下げる。
「ふむ、こいつが何か?」
「いえ、そのですね――」
 桜蘭は小姫が重傷で倒れていたのを見つけ、手当てしたことを伝えた。治療は苦手だ、櫛田家の鬼を放っておけなかったなど、媚びを売り褒美を求めるような言い方で。威与は瞳に鬱陶しそうな色を浮かべ、分かったと桜蘭の言葉を遮る。
「華月には貸しを作ってしまったようだな。後日、そちらに伺わせてもらうよ」
「貸しだなんて恐れ多いです。ふふふ、お待ちしていますね。それでは私はここで失礼します」
 桜蘭は一礼して櫛田家を後にする。威与は忌まわしそうにその背中を睨み、小姫はまたねと内心呟いて見送った。
 小姫と威与は玄関内に入る。
「華月の娘が言っていたことは本当か?」
「はい、すみません。今朝、『教育』の後見つかってしまいました」
「ちっ。だから外でするなと言ったではないか、阿呆共め……。しかし華月のやつら、面白い娘を送ってくれたではないか」
 威与はイライラしていたかと思われたが、その顔は笑っているように見えた。不気味に思いながらも、小姫は段取り通りの言葉を発する。
「あの娘、桜蘭が言っていたんですが、華月家は炎神の式神と取引をしているそうです」
「ほう。続けろ」
「炎神の式神にもらった札があれば寒くないのにと、愚痴をこぼしていました。櫛田家も必要なら妖鉱石と交換してあげようか、と言っていました」
「ふん。舐め腐ったガキだな」
 威与は少し考えて小姫に向き直った。
「お前、あの娘から華月の情報を探ってこい。向こうが避けるなら深追いはするな。まあ、あの様子だとあちらから集ってきそうだがな」
「わ、私がですか……?」
「お前にまとわりつかれてると知れれば、華月の評判も下がるだろう。余計なことは伝えず、好きにやって来い」
 まあ、お前が伝えれる櫛田の情報なんてないか、と威与はははっと笑って廊下を歩いて消えていった。
 思っていたよりすんなり話が進み、小姫はしばらくぽつんと立ち尽くす。これでいいのか?情報面で見れば櫛田も華月も探り合いをでき、小姫と桜蘭は友達として会える。桜蘭の言っていたとおりの展開になった。あっさり解決してしまった威与という不安要素が消えてしまい、小姫は手ごたえを実感できないまま、いつも待機している櫛田家の倉庫へ向かうのだった。