異端の鬼(前編)

「ったく、こんな仕事もできねーのか、このクソガキはよぉ!」
「うぐっ」

 少女は大男に腕を掴んで地に叩きつけられ、さらに腹へときつい蹴りを入れられる。息ができなくなり、焼けるような腹の痛みで身動きが取れない。喉の奥から血の臭いが込み上げてくる。

「夕方までに全部片づけておけ。できなかったら分かってるな?」

 男に前髪を掴み上げられる。口の端から血を流した少女が力なく頷くと、男は汚い物を見るように顔をしかめ、少女の頭を乱暴に手放す。そして少女を侮辱する愚痴を言いながらその場を後にした。
 残された少女は、身を縮めて横になったまましばらく動けなかった。真冬というのに薄いボロボロの着物一枚、足は裸足。肩丈の黒い髪は乱れ、全身に痣や血の滲んだ擦り傷ができている。頭には太く曲がった二本のツノ。虚ろな青い瞳には、泥混じりの踏み荒らされた雪が写っていた。

 二千年と数百年前、虹の森南部の鬼の里。櫛田、華月、菊花の大鬼御三家によって統率がとられている、大鬼と小鬼の集団。合わせて百程度の集団だが、小鬼でも鬼という種族上、そこそこの力を有しており、虹の森の勢力としては有名だった。
 鬼の里では身分制度が厳しく、小鬼にとって大鬼の命令は絶対的なものだった。奴隷のように扱われようと、理不尽な仕打ちをされようと、大鬼に逆らってはいけない。
 傷だらけの少女、小姫はもぞもぞと起き上がった。踏み荒らされてシャーベット状になった雪が体温で溶け、小姫の顔や着物が泥で汚れている。今更汚れなど気にしていられないと、よろよろと立ち上がる。
 小姫の目の前には切り倒された大木が十本ほど転がっている。薪にするためのもので、先程大鬼の男に切り倒させられたものだ。切り倒した時に折れた枝が男の方へ飛び、腹を立てた男に殴る蹴るの暴力を受けたのだ。

 小姫が命令されたのは、この大木の枝を切り落とし、丸太を薪サイズに切り分け、乾燥を請け負っている者へ渡しに行くこと。夕方までと言われたが、現在は昼手前。一人で全てこなすのは不可能だろう。
 どうせまた殴られるな、と諦めながらも、斧を持って枝を切り落とす作業に入った。

 鬼の里の鬼には、ツノの特徴がある。大鬼のツノは細長く、緩やかな弧を描いた形をしている。小鬼のツノは太く短く、折れ曲がった形状だ。
 小姫はそのどちらでもない。大鬼と小鬼のハーフである。
 鬼の里でハーフは異端とされており、差別対象である。その扱いは小鬼より酷いもので、いつ殺されてもおかしくない日々だった。
 今回の薪の仕事も、小鬼であれば複数人で作業をさせられる内容だ。ストレスの発散に小姫を使いたいがために、わざと無理難題を押し付けたのだろう。

 冬の短い日が沈みかけ、森は暗く影を落とす。小姫はこの寒さの中、汗をかきながら原木を薪サイズにかち割って居る最中だった。力仕事で体温は上がっているが、肌表面は寒風で冷え、雪を踏み締めて濡れた足は真っ赤になっている。
 薪割りの作業は終わりが見えてきたが、片道十分程歩く指定の場所まで、何往復もして薪を運ぶには時間が足りない。

「おい、終わったか」

 先ほどの大鬼が戻ってきた。男はまだ斧を握りしめている小姫と目が合うと、わざとらしくあーあと腕組みしてみせる。

「言われたこともできねぇ無能奴隷め。今すぐボコボコに教育してやりたいところだが、威与様がお呼びだ」
「え……?」
「ッチ。口を開くな穢らわしい。さっさと行け」

 大鬼に追い払われ、小姫は威与の元――自宅へ向かう。
 鬼の里御三家で一番の勢力、櫛田家。そこの一人娘の櫛田威与は権力者であり、小姫の母親でもあった。そう、大鬼と小鬼のハーフの母親だ。

 かつて、母親、大鬼の威与と父親の小鬼は密かに関係を築き、愛し合った末に小姫を産んだ。小姫は父親の家で暮らし、たまに威与が顔を覗かせに来ていた。
 小姫が生まれて三年ほどして、ついに威与の行動は両親にばれた。御三家の娘という権力、自身の保身のため、威与は父親を裏切ることにした。無理矢理子を産まされ、脅されて育てていたと。
 小鬼の父親が何を言っても、大鬼の威与の言葉は絶対である。父親は大罪を犯したと決めつけられ、そしてケジメとして威与の手によって殺された。小姫もそこで死ぬはずだったが、威与の手足となるべく生かされた。
 そして、地獄の日々が始まったのだ。食事も睡眠もろくに与えられず、限界まで働かされ、暴力を振るわれ、好き勝手に使われる毎日。それはすでに百年ほど続いており、小姫はそれが当たり前の認識になっていた。

 最近は威与が自分を呼び出すことはあまりなかった。櫛田家に仕える大鬼にこき使われていたのだが、一体何の用だろうか。

 小姫が櫛田家の屋敷に着いた頃には、日はほとんど沈んで、先ほどより闇が濃くなっていた。門番に汚物を見るような視線を送られながら、敷地内に踏み入る。玄関には向かわず、中庭を通って縁側の前に立つ。威与の部屋の前だ。正当な理由なく屋敷に上がることも、小姫には許されていない。

「小姫です。ただいま戻りました」

 小姫は淡々とした口調で声をかける。明かりの灯った障子に映った影が立ち上がり、こちらに歩いてくる。落ち着いた赤い着物を着た長身の大鬼、威与が襖を開け、小姫を見下ろす。

「華月のところへ行く。お前も連れて行く。身を清めてこい」
「は、はい」

 小姫は戸惑いながら返事し、足の裏を拭いて急いで風呂場へ向かう。
 華月家もまた鬼の里の御三家。そんな場所に自分を連れて行くとは。
 脱衣所で服を脱ぎ、そういえばと先程蹴られた腹を確認する。うっすらアザが残っているだけで、ほとんど回復していた。この回復力と頑丈さのせいで……と小姫は口を歪めるが、そんなこと考えている場合ではなかった。さっさと風呂場へ駆け込む。
 湯を頭から被って汗やら泥やらを洗い流す。いつもは濡らした布で身体を拭いていたため、この温かさに感動を覚える。温かい服も食事も寝床もない。しばらく湯の温もりに浸っていたかったが、遅くなって威与を怒らせては何をされるか分からない。居座りたがる心を断ち、脱衣所へ戻って行った。


「お待たせしました」

 入浴前よりは少しマシな着物を着た小姫が、早足で威与の前にやって来る。そこには威与以外にも数人櫛田の大鬼がおり、小姫に冷ややかな視線を送っていた。

「お前はこれを持って行け」

 威与に大きなスコップを手渡される。受け取りながら一瞬ぽかんとしたが、どういうことかすぐに理解できた。なんだ、帰り道の雪掻き役か。先程遠くの空に厚い雪雲が見えた。これから降るのだろう。威与たちの着物の裾が汚れないように働けということだ。
 自分が連れていかれる理由も分かり、不安も消えた小姫。支度が整い、玄関を出て華月家へ向かう大鬼達の後を、大人しく着いていく。せっかく温もった体温が、外の冷たさにすぐさま奪われた。

 華月家の屋敷前。威与と門番の鬼が言葉を交わし、櫛田の鬼が屋敷に入っていく。何も言われずとも小姫は外で待機する。門番の鬼は小姫と目を合わせないようにしながら、門を閉めて中に隠れてしまった。
 暇だ。自分を連れて来る――雪かきが必要になる程、長時間かかる話し合いなのだろう。今のうちにやり残した仕事をできれば良いのに。突っ立ってぼーっとしていると、ちらほら雪が散り始め、だんだん勢いが増していった。土の上が薄っすら白くなり、雪に覆われていく。
 立っていても暇なので、スコップで払いのけるように薄く積もった雪を退けていた小姫だが、それも追いつかなくなってきた。櫛田家から華月家までの徒歩五分ほどの道の雪を掬い、道の端に投げ飛ばしていく。

 雪は弱まることなく、既に一時間以上降り続いている。時刻は十八時を過ぎた頃で、辺りは真っ暗だ。ぽつぽつと設置された炎の妖鉱石を設置した灯篭と、夜目もそこそこ利く種族であるため、暗さで作業ができないことはない。それでも雪と地面を見分けにくい。何度も櫛田家と華月家を行き来するが、雪とのいたちごっこが終わらない。
 少し休憩、と小姫は華月家の前で溜息を吐く。こまめに雪を退けているため、そこまで疲労はしていないが、手足は冷たさで感覚がなく、昼間の力仕事の疲れで少しふらつく。威与たちがいつ出てくるか分からないため、またすぐに雪かき作業に戻らなくてはいけない。スコップに体重を預けてげんなりしていると、こちらに向かってくる気配を感じた。威与たちではない、屋敷に向かってくる。慌ててスコップを持ち直し、作業を再開する。

「あなたは……」
 小姫の視界に、和傘を差した大鬼の少女が映る。桜柄の鮮やかな赤い着物に、桃色の防寒着を羽織った少女。背に垂れた茶色の髪、頭には桜の髪飾り。敵意のない赤い瞳で、不思議そうにこちらを見ている。

「どうして家の前で?寒くないの?」

 小姫は眉をひそめる。この少女は自分のことを知らないのか?里中の鬼が自分のことを忌嫌っているというのに。この歪なツノを見ればすぐに異端だと分かるはずだが、少女は心配そうな表情をして近づいて来る。思わず数歩後ずさる。

「大丈夫?」
「寄らないでください。私は異端児ですよ」

 彼女が華月家の屋敷を家と言った。ここの娘か何かだろう。そんな貴族と一緒にいるのを見られたら、無礼者だと大鬼の逆鱗に触れてしまうだろう。しかし、少女は目の前まで歩いてきて、傘をこちらに傾け、少し高い目線を小姫に合わせて笑顔を作って見せた。

「そういうのには興味ないの。私は華月桜蘭。小鬼と大鬼のハーフさん、あなたの名前は?」
「……小姫」
「良い名前ね!」

 あまりにも眩しすぎる笑顔。戸惑いで顔を背けてしまう。

「おいで。こんな格好で外にいたらダメだよ」
「いいえ、大丈夫です。これが私の仕事なので。それに、サボって中に入ったら、威与様がお怒りになるので」

 小姫は温かい桜蘭の手を振り払う。桜蘭は困った顔をしたが、すぐにはっとして袖から何かを取り出した。

「じゃあ、これあげる」

 押し付けるように桜蘭から紙切れを受け取る。細長いお札で、赤い文字で何か書いてある。

「これは……?」
「身につけていると暖かくなるお札。最近火山の方で白狐が配ってるから、いっぱい貰ってきたんだ。妖力を込めると、起動するんだって。やってみて」

 言われた通りに、少しだけ札に妖力を流してみる。すると札の文字が一瞬光り、札が熱を持ち始めた。

「これを背中とかお腹に貼り付けてたら、全身ぬくもるよ」
「私なんかがこんなもの、良いのですか?」
「良いよ、いっぱいあるし。むしろ、私たちより小姫が持ってる方が良いよ」
「……ありがとうございます」

 小姫は隠すように服の中に札を貼り付ける。不思議なことに札の周りだけでなく、手足の先まで暖かさに包まれる。
 そんな小姫を見て桜蘭は静かに微笑む。

「ねえ、少し話し相手になってくれない?」
「で、ですから、私は仕事がありますので。それに、誰かに見られたらあなたまで叱られてしまいます」
「もう……頑固というか、変に真面目というか。ちょっと待ってて!」

 そう言い残して桜蘭は門を開け、華月家の屋敷に走って入って行った。あんなに悪意のない会話はかつての両親と以来初めてだ。戸惑いと気疲れで溜息を吐く。桜蘭、変わった鬼だ。とはいえ、不思議なお札で寒さも気にならなくなった。桜蘭はどこかへ行ってしまったし、作業を再開しようとスコップを握り直す。

「おまたせ!」
「うっ」

 一分もしないうちに桜蘭が戻って来た。右手には先程持っていた傘のかわりに、大きな桃色の珠が先端についた杖を持っている。

「雪かきする必要がなくなればゆっくりできるんでしょ?」
「そうですけど、まだまだ降りやみそうにないですよ」
「私に任せて!」

 ふふんと胸を張る桜蘭。既に髪や羽織に雪がついてしまっているが。
 小姫が呆れ気味に見守る中、桜蘭は杖を空に掲げる。ねじれたような木の柄、先端の珠は枝が巻き付くような装飾がされていて、枝には桜の花がいくつかついている。桃色の珠にも桜模様が浮かんでいた。
 桜蘭が妖力を集中させ始めた。杖の珠が輝き、あまりにも強力な妖力で強風が吹き荒れて二人の髪がなびく。小姫は何が起きるのかと目を丸くし、口をあんぐりと開けて固まることしかできない。
「桜花千詠、空を晴らし、春をここに」

 桜蘭の言葉の後、杖の珠から眩い光線が空に放たれた。厚い雲に光が吸い込まれたと思いきや、雲全体に光が広がり、夜空が白く光る。そして光が消えると同時に雪雲が霧散し、冬の澄んだ星空と月が顔を覗かせた。次第に雪も収まり、明るい冬の夜が訪れた。

「これでよし!」
「は、はぁ……?」

 訳が分からず、間抜けな声を漏らす小姫。一方、桜蘭は疲れ一つ見えない表情で、満足そうに空を見上げて笑っていた。

「さあ、威与様が来られるまで話そうよ」
「え、あ……」
「ん?」

 小姫はまだ状況が理解できず、桜蘭と夜空を交互に見る。

「今のが気になる?」

 桜蘭が杖を小姫によく見えるようにと近づける。それを見つめながら、小姫はこくこくと頷く。

「これは春を呼ぶ杖、桜花千詠。先端の珠が特殊なもので、周囲のエネルギーを勝手に貯蓄していくの。杖の能力と杖のエネルギーで雪雲を晴らしただけよ」

 桜蘭は簡単そうに言うが、あれは誰にでもできることではないだろう。桜蘭自身の妖力か才能か、何か普通とは違う迫力だった。
 ひとまず小姫は落ち着き、桜蘭も分かってもらえたとほっとしている。

「あっちに座れる場所が――」
「残ってる雪を退けないと……」
「ぐぬぬ、こ、小姫〜!」

 雪は止んでも、積もっている雪がなくなるわけではない。桜蘭を避けるわけではないが、まだ気を抜くわけにはいかない。

「それくらい暇そうな門番にさせるわよ」

 桜蘭は門を開け、門番に櫛田家までの雪かきをするように交渉し始めた。門番は困りながら断っていたが、桜蘭が温かいお札をちらつかせると、それを一枚受け取って外に出てきた。小姫からスコップを取り上げ、櫛田家の方へそそくさと歩いていく。

「こっち来て。大丈夫、私が屋敷に無理矢理連れていくだけだから」

 小姫は桜蘭に手を引かれ、華月家の門をくぐった。小姫は桜蘭に手を引かれ、華月家の門をくぐった。櫛田家と同じくらい立派な屋敷と、雪の積もった庭。庭の端に屋根のついた長椅子があり、桜蘭はそこへ小姫を連れて行き、座るよう促した。

「寒さは大丈夫だと思うけど、外でごめんね。家の中は大人たちがピリピリしてそうだし」
「いえ、十分です。いろいろありがとうございます」

 小姫はぎこちなく謝礼を述べる。隣に華月家の令嬢が座っているのが落ち着かない。触れてはいけないような気がして、椅子の端に身を寄せてしまう。

「ねえ、小姫のこと聞かせて」

 小姫の勝手な気遣いを構いなしに、桜蘭はずいと近づき、小姫の顔を横から覗き込む。なぜか楽しそうに目を輝かせて。

「聞かせると言われましても……噂通りのことしか」
「噂なんてどうでも良いのよ。ほら、好きなものとか、最近良いことあったとか」

 どうして彼女はここまで自分に興味を持つのだろう。特に悪意を感じられないのが逆に不気味だ。そう思いながらも、桜蘭の質問の回答を探すが、何も思いつかない。

「その……わかりません」
「そうなの?私は桜が好きだよ。最近ね――」

 桜蘭は嬉しそうに語った。楽しかった、綺麗だった、初めて知ったなど。小姫は相槌を打って頷いていたが、聞けば聞くほど桜蘭との住む世界の差を思い知る。彩られた日常を生きている桜蘭の話は小姫の知らない、いや、ほとんど忘れてしまった遠い世界の話で、今の小姫には理解ができなかった。それの何が楽しいのか、どこが綺麗なのか、初めて知ったからどうしたのか。
 百年程前の家族の記憶が薄っすらと呼び起こされる。もう二度と戻らない鮮やかな日々。思い出さない方が楽に過ごせたのに。
 小姫の胸がずきりと痛む。黒い感情が滲み出てくる。顔に出ていたのか、桜蘭が口をつぐんだ。

「……ごめん、喋りすぎたね」
「いえ……」

 桜蘭が気まずそうに目を泳がす。別に桜蘭に対して怒ったり嫌に思ってはいない。楽しそうな鬼や裕福な鬼は里にも、屋敷でも毎日目にする。嫌がらせで見せつけられることだってあった。だから気にしなくて良いと伝えたいのだが、何といえば良いのか分からず口が開かない。
 しばらく沈黙が続く。桜蘭は何か言いたそうにしているが、迷っているようだ。そわそわしてこちらの様子を伺い、口を開けかけては閉じている。

「あの、何か?」
「あ、その……」

 桜蘭は膝の上に置いた拳を固く握り、勇気を出すかのように目を閉じて深呼吸した。そして小姫に向き直る。

「ねえ、小姫はどうしてあんなのに耐えられるの?」
「……?」

 先程とは違い、桜蘭は目を伏せ、声色も低く真剣なものだった。悔しそうに口元を歪め、何かに怒っている様子だ。

「いつも酷い目に遭ってるんでしょ?その……威与様からも」
「ああ、やっぱり知ってたのですね」
「まあね」

 話しかけて来たり、こうして隣に座ったり、自分のことをあまり知らないのか不審がっていたが、しっかりと知った上での行動だったらしい。尚更桜蘭の行動が疑問ではあるが。

「私、おかしいと思うんだよね。混血だから差別したり、小姫にだけ何でもしていいみたいな思考は。小姫は何も悪くないのに」
「……そんなこと言ってはあなたも目の敵にされますよ。私はこれで良いのです。掟破りの生まれてこなければ良かった存在なのですから、命あるだけで幸せなんです」
「そんなの幸せじゃないよ」

 俯いて怒りで声を振るわせる桜蘭。どうして彼女はここまで……。理解できない。
 また沈黙が訪れる。すると玄関の方で動きがあった。話し合いが終わったのだろう。桜蘭もそれに気づいて顔を上げる。

「小姫、私たち、友達だからね!」
「え?」

 両手を掴まれ、まっすぐ見つめられる。ともだち??小姫は聞き慣れない言葉に目を白黒させる。

「また会おうね!絶対だよ!見かけたら声かけるから!……じゃあ、またね!」

 桜蘭は早口にそう言うと小姫に玄関へ向かうように促す。ここでゆっくりしているのを、威与たちに見られない方が良いとの気遣いだろう。いろいろ混乱していて言葉に詰まったが、手を振る桜蘭に頭を下げて玄関に向かった。

 華月家の門番は雪かきを終えていたようで、門前でお札を貼りつけたまま立っていた。小姫は来た時と同じように威与たちの後ろを歩き、華月家を後にした。雪が降っていなかったため、威与から小言を言われることもなく帰路につけた。
 帰り道、小姫はずっと桜蘭の言葉が頭に残っていた。友達。言葉の意味自体は知っているが、具体的に友達とは何なのだろうか。異端児と大鬼の令嬢がそんな関係になるなんて無理だ。周りが許すわけがない。
 断れなかったが、返事もしていない。気にせず奴隷としていつも通り過ごし、今日のことも忘れてしまえば良い。そう分かっていながらも、桜蘭を無下にするようで心が少し痛んだ。
 彼女のことは本当に分からない。自分と別の世界に住んでいて、妬みすら通り越して眩しすぎる存在。小姫の暗闇の隙間から入り込み、光の世界へ連れ去られそうになる。きっとこのまま暗闇にいる方が楽なのに。

 櫛田家の屋敷について、威与から解放されても、ずっと同じ思考に囚われて考え込んでいた。風を凌げる物置小屋に入り、壁にもたれて座る。そして思案を続けるうちにうとうとし、まぶたが閉じた。
 お札はまだ熱を持っており、疲労も溜まっていた小姫を深い眠りへ誘った。凍てついた心も、わずかに溶かし始めた。

――――――

 小姫が玄関の方へ小走りに向かうのを、椅子に座ったまま桜蘭は見送る。すぐに出てきた櫛田家の鬼に連れられ、小姫は華月家を後にした。
 桜蘭ははぁと溜息を吐く。元々小姫のことは気になっていた。差別され、暴力や過労の仕打ちを受けていた哀れな鬼がいると知り、どんな醜い姿をしているのか、好奇心を抱いていた。少し前に小姫の姿を目撃し、いたって普通の少女であると知り驚いた。ただツノの形が違うだけ。鬼の里に古くから根付く掟があるのだろうが、桜蘭には小姫を酷く扱う大人や、言いなりになっている若者が理解できなかった。
 そしてタイミング良く、小姫が自宅に現れた。彼女を救う、少し手助けできるだけでも良い。何か力になりたいと接触を試みた。御三家の娘同士、本来は対等な関係になれるはず。自分と親しくなれば、理解者も増えるのではないかと。
 温かいお札も、空を晴らしたのも、雪かきを門番に押し付けたのも、いろいろ話したのも、小姫に喜んでもらおうと思っての行動だったが、彼女は感謝は述べれど、一度も笑わなかった。強引に友達だなんて言ってしまったが、認めてもらえるのだろうか。
 ここで悩んでいてもどうにもならない。桜蘭は屋敷に戻ろうと椅子から立ち上がる。そして手にしたままの桜花千詠のことを思い出し、先に倉庫へ行かなくてはと思い直す。

「桜蘭、ちょっと」

 玄関で櫛田家を見送った父に手招きをされる。側には門番も立っている。さては、雑用を押し付けたことを告げ口したなと門番を睨むが、知らんぷりして持ち場へ逃げて行った。別に隠すようなことはしていない、堂々とした足取りで父の前まで歩み寄る。父は外は寒いからと、屋敷の中へ入って行った。
 話し合いが行われていたであろう広い部屋に連れていかれる。中は廊下よりも少し暖かく、母が座布団に座って待っていた。行燈の明かりが母の影を濃くしていた。

「座りなさい」

 母の隣に座った父にそう言われ、向かい側に座る。少しピリついた空気が不快で、桜蘭は自分から口を開く。

「言われていたお札はたくさんもらってきましたよ。これでしばらくは暖かく過ごせますね」

 母は黙ったままで、父も呆れたように溜息を吐く。穏便に済まなさそうだと分かり、桜蘭も取り繕った笑顔を消して、面倒くさそうに姿勢を正した。

「何か?」
「櫛田の娘と接触しましたね?杖まで勝手に持ち出して」

 母が静かに言う。その言葉は落ち着いた声だが、奥底に怒りが含まれている。母は視たのだろう。一定範囲内であれば遠くを見ることのできる能力持ちの目で、桜蘭が小姫といる場面を。父も門番から証言を聞き、勘違いではないことが両親の間で確定しているのだ。

「ええ。小姫とは良い友達になれそうです」

 真っ直ぐ母の目を見つめ、笑顔でそう言う。恐れる必要はない、自分は間違っていないのだから。何を言われても平気だと強気に構えていると、頬に強い一撃をくらった。母が怒りに震える右手を振り下ろし、さらに殴り掛からんというように全身に力を込めている。父が落ち着けとなだめるが、その瞳も桜蘭へ冷たく注がれている。

「何を考えているのですか!あの娘は種族の穢れです!あなたほど賢い子なら、近づくだけでも不幸が降り注ぐと理解できるでしょう!」
「……」

 ヒステリックに怒鳴る母を、桜蘭はじろりと睨む。人生で初めて平手打ちをくらい、頬がじんじん痛む。しかし、それ以上に母の言葉への嫌悪が上回った。まだ持ったままの桜花千詠を強く握りしめる。どいつもこいつも、と桜蘭も怒鳴りたくなったが、冷静になれと自分を叱責する。立場あってこそ、ある程度自由に動けるのだ。二人には何か都合の良い言い訳で説得しなくてはいけない。
「二度とあの鬼には関わってはいけません」
「いいえ、それはできません」

 さらに激高する母が喚く前に、桜蘭は言葉を続ける。

「小姫と関わるのには利益がありますよ。だって、あの鬼は櫛田家の娘なんですから。あの偉そうな櫛田から情報を横流しにしてもらえるのですよ。今回はそれの下準備です。雪かきの恩を着せて信用させるのです」

 自分を殴ってやりたくなるが、その気持ちを押し殺して悪い顔を浮かべて見せる。鬼の御三家で一番勢力がある櫛田家。櫛田の意見が通りやすい現状を、両親含めた華月の勢力は不愉快に思っている。桜蘭の企みを聞いて、二人とも怯むが、これだけではまだ足りなさそうだ。

「小姫は櫛田家の弱点です。それを利用すれば、例え華月が櫛田に不利益をもたらしても、怒りの矛先は小姫に向かいます。あの鬼からいろいろ聞き出して、櫛田の信用を潰しませんか?華月の『娘』である私なら、一応立場上は一緒にいられますよ」

 桜蘭のゲスい提案に、両親は困って顔を見合わせたのだった。

 その後、あれやこれやと両親を言いくるめ、人目のつかない場所での小姫との接触を許された。
 桜蘭は廊下をとぼとぼと歩き、自室へと向かう。嘘とはいえ、小姫を侮辱することをたくさん言ってしまった。ため息を吐いて部屋の障子を開け、使用人が敷いてくれた布団に包まる。
 もっと小姫のことを知りたい。両親たちに嘘を重ねてでも、周りに咎められようと構わない。自分が正しいと思う行動をするまでだ。桜蘭の中で決意の炎が揺らめいた。