それからは人目を避けて桜蘭と過ごし、互いに家族へはそれっぽい情報を伝え続けた。共に桜を見て、雨の中傘を差して歩き、水場で暑さをしのぎ、夜に虫の声を聞き、赤くなる葉を眺め、熟れた果実を齧り、雪の上に足跡をつけた。毎日ではないが、都合の合う時は桜蘭と過ごし、一年が経った。
もちろん小姫の里での扱いが良くなったわけではない。相変わらず差別は続き、酷な労働を押し付けられ、暴力も振るわれた。それでも桜蘭と過ごす日を楽しみにし、我慢を続けられた。辛さしかなかった毎日に少しの幸福が足されるだけで、小姫の心境は大きく変わっていた。
桜蘭と出会って一年が過ぎた春、鬼の里から離れた虹の森で、二人は大きな桜の木の下に腰かける。
「去年は探り探りだったから遠出まではできなかったけど、やっと小姫をここに連れて来れたよ。良い場所でしょ?」
心地よい風に髪をなびかせ、桜蘭は頭上の桜を眺める。桃色の宝珠がついた杖、『桜花千詠』を太陽に翳すと、透けて桜模様が浮かび上がる。小姫もうんと返事し、青空を彩る花を見上げる。今日は虹の森の代名詞の虹もかかっており、カラフルな景色だった。
「そういえば、もうすぐ御三家の方針発表があるでしょ」
方針発表。年に一度、櫛田、華月、菊花が里の運営において、何に力を入れるのかを発表するものだ。妖鉱石や資材の分配、指示する派閥に属する恩恵、里全体の決め事など、いわゆる政治的なアピールの場だ。里の鬼がどの家の派閥に属するか、御三家にとっても住人にとっても重要な行事である。弱肉強食の櫛田家、外交に力を入れている華月家、保守的な菊花家。鬼の性質上、櫛田家に賛同する者が多く、一番勢力が強い派閥になっている。
「小姫と出会う前から、小鬼の地位向上とか差別をなくせるように、個人的に華月内で動いてたんだけど、今回はちょっと進展あったんだ!」
「へぇ、やったじゃん」
「小姫とはいえ、さすがに詳しくは教えられないんだけど、ちょっとだけ私の意見も方針に取り入れてもらえたんだよね。きっと小姫にも良いようになるはずだよ!」
嬉しそうな桜蘭を見て、小姫は改めて感心する。まっすぐでまぶしい。桜蘭なら長い時間をかけてでも、鬼の里を良い方向へ導いてくれそうだ。
その後は日常的な会話をしながら、穏やかな時間を過ごした。
「おやおやおや、たまに姿が見えなくなると思ったら密会とはな」
日常を脅かす声。小姫も桜蘭も驚いて声の主の方を見る。筋骨隆々の櫛田派閥の大鬼、小姫に度々暴力をふるっている男だ。
「随分仲良さそうだなぁ、異端児」
「あら、櫛田のところの方ですか?この子にちょっと話し相手になってもらおうと思って。別に櫛田のことを探ったりなんてしてませんのでご安心を」
桜蘭が立ち上がり、威与にも見せた悪女設定のセリフを述べる。しかし男にはもう親しいのがバレているようで、バカにしたような笑いで桜蘭を睨む。
「華月の嬢ちゃん、そいつはやめといた方がいいですよ。あんたにも穢れがうつってしまいますから。そのゴミは俺が綺麗にしときますから今日はおかえりくださいな」
男は拳をバキバキ鳴らして小姫に向かってずしずしと歩いて来る。男に余計なことを言い広められないためにも、大人しくストレス発散に付き合ってやろうと小姫は覚悟を決めるが、男の前に桜蘭が立ちはだかった。
「なんですか?これは櫛田の問題ですよ?邪魔しないでください、教育するだけですから」
「何が教育よ……あんたのせいで」
「桜蘭、まずいって」
怒りで冷静さを失いかけている桜蘭に、小姫が小声で制止しようとするが、今にも戦闘が始まりそうな緊張感が漂っている。
「おお、怖い。やめてくださいよ、こっちは華月家のお嬢さんに手出すわけにはいかないんですから」
「じゃあここから立ち去って」
「それはできませんねぇ」
男がさらに数歩前に出ると、桜蘭は杖を振り上げる。桜蘭の周囲からいくつもの太い木の根が地表を突き破り、男の方へ根の先端を向ける。巨大な触手のような根の先端は刃物のように硬く鋭い。
「それ以上近づくとどうなるか分かりますよね」
「はぁ……自分が何してるか分かってるんですか?これは威与様に報告させてもらいますからね」
男はわざとらしく溜息を吐き、意地悪くにやりと笑って見せる。小姫は軽くパニックになり、何が最善択か分からなくなり、黙って見ていることしかできなかった。そこへ、さらなる予想外の事態が起きた。
「報告する必要はない。全て知っている」
新たな声にその場の全員が驚いた。男が現れた方向からやって来たのは櫛田威与だった。桜蘭は怯みながらも警戒を解かず、男は勝ち誇った表情で襲われたと誇張して桜蘭を陥れようとする。
「うるさい喚くな、知っていると言っただろう」
威与は男に文句を言いながらも隣に立ち、桜蘭に向き合う。桜蘭の後ろにいる小姫にちらりと視線を向けたが、その表情は怒りとも失望とも違う、楽しそうなものだった。
「華月の娘は元気がいいねぇ。春でこんなにも桜が綺麗だから浮かれてるのかねぇ」
桜蘭がびくりと身を震わす。そのわけは小姫には分からなかったが、桜蘭が知られたくないことを威与に知られているのだろう。
「威与様、やっちゃってくださいよ」
「そうだな」
男の言葉に威与が頷いて一歩踏み出す。桜蘭が後ずさるが、身を守るように木の根は威与と男に向けている。
「安心しな、華月の娘。あんたは傷つけやしないさ」
威与は笑ってそう言うと、男の着物の後ろ側の衿を掴む。男はぽかんとして威与の方を見るが、答えを得る前に身体が空中に放り出された。勢いよく、真っ直ぐに桜蘭の少し左側へ男の身体が飛んでくる。小姫も桜蘭も理解できず、男の行方を視線で追う。一秒もない時間だった。
男の身体は桜蘭が構えていた木の根に突き刺さる。ちょうど心臓がある位置に深々と刺さり、背からは血に濡れた木の根が突き出ていた。
「い、よ、さま……」
男は即死せず、助けを乞うように威与の方へ振り返る。威与は男の元まで歩き、別の根を掴んで男の首にそれを突き刺す。
何度もグサグサと男が刺される様子を、小姫と桜蘭は目を見開いて見守る。指一つ動かすことができなかった。目の前で何が行われているのか分からない。なぜ威与は仲間であるはずの鬼を殺しているのか。
男が完全に息絶えると、威与は水の妖鉱石とハンカチを取り出し、肌に着いた返り血を拭き取っていく。誰も言葉を発さず、ただ威与が最低限の汚れを落としている時間。
そうしているうちに、威与が来た森の方から大勢の足音が近づいてきた。我に返った桜蘭が操っていた木の根を地中に引っ込めようとしたが、それより先に櫛田派閥の大鬼と小鬼が姿を現した。
「こ、これは……威与様、一体何が?」
死んだ鬼に驚き、大鬼の一人が背を向けている威与に尋ねる。威与はニイッと口の端を吊り上げ、声を抑え、肩を震わせて笑う。桜蘭と小姫から見れば恐ろしい形相で笑っているが、背後の鬼たちには仲間を殺されて泣いているように見えた。
「間に合わなかったよ。この小娘にやられた」
威与は桜蘭の目を真っ直ぐ見つめ、悔しそうに声を震わせて言った。全く悲しみなど感じられない、残酷な表情のまま。
「捕らえろ。父上と母上にも伝えてこい。華月家へ向かうぞ」
威与がそう指示すると、大鬼数人が怒りで地を踏み鳴らして桜蘭の腕を掴む。
「ち、違う!私じゃない!」
「お前の術で死んでるだろ!反逆者め!」
鬼たちは桜蘭の言葉を聞かず、強引に桜蘭を歩かせていく。思わず小姫も立ち上げる。
「違うんです!これは、い――」
「貴様はしゃべるな異端児!」
大鬼が怒鳴り、小鬼が小姫に石を投げる。そう、自分は鬼の里で発言の権利すらない異端。いつもそうやって自分では何もしてこなかった。自分が我慢すればいいだけだったから。だが、今は桜蘭が危機に陥っている。
父が死んでから、初めて小姫が牙を剝いた。
「ふざけんな……」
低く呟いた小姫。鬼たちはまさか反論されるとは思っておらず、疑問符を浮かべて小姫を凝視した。
「友達に手ぇ出すなっ!」
小姫は地面を強く蹴り、桜蘭の腕を掴んでいる大鬼に体当たりを食らわせる。小柄な小姫だが、大鬼の血も引いているため、そこそこ力はある。大鬼はバランスを崩してよろめいたが、すぐに態勢を立て直して片手で小姫の首を掴む。大きな手のひらはギリギリと首を締め上げ、小姫は苦しさにもがくがびくともしない。大鬼の腕に爪を立てると、大鬼は不快そうに顔を歪めて威与の方を見た。
「威与様、どうしますかコレ」
「そこにでも刺しておいたらどうだ?」
威与は桜蘭が出現させたままの木の根を指さす。大鬼は桜蘭を別の鬼に預け、小姫の首を掴んで死んだ男の傍までやってくる。まだ使われていない根を引き寄せ、そこに小姫の腹を突き刺す。
「ぐっっっ!う、がっ!!!」
「小姫!!!!!!!」
首を絞められて声も出せず、身体を貫く痛みに手足をバタつかせる。背骨を損傷し、身体に力が入らない。大鬼は根が突き出ている地面まで小姫を突き刺し、さらに抜け出せないようにと、四肢にも別の根を杭のように刺して地面に固定する。ようやく首を解放され、咳き込みながら苦痛の叫びを上げる。
鬼たちの足音と桜蘭の自分を呼ぶ声が遠のいていく。側に一つだけ残っている足音、威与が小姫の顔を覗き込む。
「お前はよく働いてくれたよ。華月と親しくなり、あの娘は異端児のお前を守って櫛田の鬼を殺した。あーあ、方針発表の直前にこんなことになるなんて、華月は終わりだなぁ」
「うぐっ、最初から、そのつもりで……」
憎しみを込めた目で威与を睨み、口から血を流しながら苦しげに言葉を発する。去年桜蘭と威与に会いに行ったときから、この女は仕組んでいたのだ。あの時の不気味な笑み、気持ち悪いほどすんなり進んだ話はこういうことだったのか。
「今日は華月の方に用があるからな。お前の反抗への罰は明日にしてやる。そこで大人しくしておけ。逃げたらあの娘がどうなるか……いや、その状態では回復も追いつかんか」
威与は小姫の腹から突き出た太い根をゆさゆさと揺する。胴体がちぎれそうなほど大きく開いた穴がさらに押し広げられ、小姫は悲鳴を上げる。威与はふんと鼻で笑い、鬼の里へ戻って行った。
怒りと痛みで涙が止まらず、手足も胴体も縫い付けられて動けない小姫は絶叫する。何を言っているか自分でも分からないが、威与への怒りが爆発していた。叫ぶたびに腹が痛み、血が込み上げてくるがどうでもいい。今桜蘭を助けにいけないのであれば、自分がどうなろうが関係ない。
小姫の百年間の恨みが、思考も心も黒く染め上げる。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしねしね!!!!!威与も櫛田も大鬼も小鬼も、みんな殺したい。自分の力で殺せないなら自分が死んでも呪い殺す。
桜蘭という光を知ってしまったから、心の氷という鎧を溶かしてしまったから、今までのように耐えることができなかった。明るい世界に片足を突っ込んだせいで、普通だった扱いが嫌になった。どうして自分ばかりあんな扱いを受けた?なぜ誰も止めてくれなかった?なぜ唯一の救いの存在を奪う?
小姫の呪詛は咆哮となり、声が枯れるまで虹の森の一部に響いていた。
『ほう、なかなか面白いやつがいるではないか』
そんな小姫の怒気につられてきた存在。夕方の薄暗い上空から小姫を観察し、気に入ったと霧化させていた身を実体化させてそちらへ飛んでいった。
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ゆがみん (火曜日, 26 3月 2024 04:00)
お疲れ様です。
ゆがみんです。
威与の手のひらの上だった。
流石トップに立つ者。
一年も時が流れて油断をしていたのも事実。
やっぱり小姫にとっての光は桜蘭になっていた。
もしも桜蘭に出会っていなければ関係を持っていなければ惨めな想いは軽減されていたのだろうか…?
小姫にとっての幸せは間違えなく桜蘭の存在。
眼の前でハメられた時のどうしようもなく何もできないままに力でねじ伏せられている様はまさにとりはだが立ちました。
ただならぬ怒り憎しみ殺意正真正銘鬼神の如き心境だったのだろうと想像できます。
最後の霧化は…???
楽しみでしかありません。
幻夢界観測所 (水曜日, 27 3月 2024 01:28)
ゆがみんさん、コメントありがとうございます!
威与の野心に敵わなかった…。実は櫛田トップはまだ威与の父親で、小姫を産んだことによって威与の立場が危うくなったので、それもあって威与は権力に飢えているのです。
桜蘭がいなければ爆発はしなかったけど、幸せを感じることもなかったでしょう。どっちが良かったのか。
強い負の感情はとんでもない力を発揮しますからね、小姫は一体……。